【人間の土地改変】 歴史時代の地形の変化をもたらした最大のものは人間の営みである。その第一は海岸の埋立てであり、港区の海岸低地のほとんどがそれによって作られた。前項でみたように、ほぼ東海道線までの埋立ては江戸時代におこなわれ、それより外側は明治・大正・昭和に埋め立てられた。その埋立て土砂の採取によって、港区の台地がどれだけけずられたか、筆者には詳かでないが、台地の地形改変は、宅地造成によって斜面部分でいちじるしく、今では自然のままの斜面は東宮御所(もと紀伊上屋敷)、白金自然教育園(もと海軍火薬庫・大名下屋敷)ぐらいにしか残っていない。
台地表面の黒土(表土)は一万年前以後の火山灰に、落葉などに由来する腐植が混じったものであるが、これも道路や建築工事などで失われたり乱されたりしている。谷底低地の地形も盛り土によって多少なりとも変化している。
【関東地震による被害の地域差】 今では、港区の土地自然は数多い坂道にだけ表われているようにみえる。しかし、一旦大地震が起これば、地盤はその生い立ちを反映して震動し、あるいは不等沈下や液状化をおこし、被害の大・小には地域による違いを生じるであろう。関東大地震の被害はそうであった。その時の木造家屋の被害率(全壊家屋数+半壊家屋数の半分を全戸数で割って一〇〇を乗じた百分率)の分布を概観しよう(資料は松沢武雄「木造建築物ニヨル震害分布調査報告」『震災予防調査会報告』第百号(甲)をもとに松田磐余氏が分布図にしたもの)。ほぼ東海道線以西の区内の大部分で被害率は、一~二%以下であるが、二%をこえる地域があり、それらは図3に描いた沖積層の厚さが二〇メートル以上のところおよび泥炭地である。具体的には、丸の内谷のところで被害率五~一五%、溜池谷の泥炭地で一〇~三五%、古川谷の泥炭地、ことに一ノ橋~赤羽橋で五~三〇%ほどであった。いずれも軟弱な、泥層や泥炭が被害を大きくした原因であるが、これらの地域はまた、地盤沈下を経験してきたところでもある。
港区の土地の性質とその生いたちは、この節で紹介したようにかなりわかってきたとはいえ、土地の歴史を知るためにも、将来のよりよく安全な町づくりのためにも、さらに調査・研究がおこなわれることを期待したい。