(五) 港区内の沿海性植物

34 ~ 35 / 1465ページ
 港区内は、第四紀洪積世後期の第三間氷期には、海面が現在とほぼ同じ位置まで上昇していたと思われるので当時の海岸線だった赤坂台から愛宕山を経て高輪台に至る、かつての臨海崖地と、それにつづく砂浜には各種の海浜植物が繁茂し、潮風に抵抗力の強い沿海性植物も臨海台地などに生育していたが、これらはやや北方系のものによって占められていた。
【海面の低下と上昇】 続いてウルム氷期に入り、海面が低下するにしたがって、これらの海浜植物はその海面につれて下降していったが、氷期が終わると再び海面上昇にともなって移動してきたと思われる。しかし、海面の急上昇は多くの植物を海水に浸すことになり、死に絶えてしまったものが多かったようである。
 その後ほぼ海水面が一定に保たれているため、温暖地系の海浜植物が、海岸一面に生育していたが、江戸時代に入ると、急激に海岸の埋立てや、後背地の開発が行なわれはじめたので、この自然植生はほとんど壊滅してしまい、わずかに残った芝浦から高輪にかけての海岸線の植物も、明治に入って間もなく、埋立用の土砂採取や鉄道、道路建設および埋立てによって絶滅に瀕してしまったのである。しかし、埋立地が安定すると同時に、ふたたび植生が甦(よみがえ)って、海浜植物も種類をふやしてくるのであるが、埋立地が沖へ沖へと遠ざかるにつれ、植物の種類がどんどん入れかわって、早くから埋め立てられた土地からは海浜植物が駆逐されてしまうことになる。
【埋立地と植生】 これは、まず埋立地ができると、最初には本来の海浜植物である好塩性植物が入り込むのであるが、埋立地の特性から、年代を経るごとに土中の塩分濃度が低下するため、その濃度に応じて抵抗力をもつ植物が次々と侵入して前者に置きかわりつつ、次第に塩分が抜けるにしたがって、ふつうの植物が生育する草原になるのである。
 埋立地は、このように経年変化をたどるため、一般の植生と同じに考えるわけにはいかず、一時的に海浜植物や沿海植物による植生が完成されても、極相を示している、とは言えないわけである。
 しかし、原則として汀線ぞいには、好塩性または海水に強い抵抗力をもった、いわゆる海浜植物が群落をつくることになる。また、完成後間もない埋立地にも、同じ仲間の植物が優先して生育する。
 完成後は、年代を経るごとに塩分が抜け、次第に塩分に弱い平地の植物のみ、または平地にも生育できる海浜植物がわずかに入り込んだ植生となるわけである。これが埋立地の特徴で、自然海岸がいつまでも海浜植物で占められつづけているのとは根本的にちがう点となっている。したがって、埋立地では、植物相の調査を行なっても、その時点での種類がわかるだけで、あまり意味がないことになる。しかし、経年変化を知るためには、やはり詳細に調査しておかなければならないことはいうまでもない。