[[先土器時代]]

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 昭和二十四年(一九四九)、群馬県桐生市に住む相沢忠洋氏が、赤城山麓の岩宿遺跡で特殊な石器を発見し、引き続き明治大学の杉原荘介教授を中心とする調査団が精密な発掘調査を行なった結果、はじめてわが国にも土器をともなわない特殊な石器の存在が明らかにされ、次いで全国の各地でも同じようなプリミティーブな石器の発見が相次ぎ、それまで考えられていたわが国には土器を持たない文化が存在しないという定説を見事に覆したのであった。
【石器主体の文化】 このような打製石器を主体とする文化をいかに考えるかという点では、それ以来三〇年の年月が過ぎたにもかかわらず、まだ不明な点が多く、ヨーロッパをはじめとして世界の各地に見られるいわゆる旧石器時代と見なすべきか否かについて、まだ学界の定説をみるに至らず、表題のように〝先土器時代〟と名付けたり、〝無土器文化〟と呼ぶなど、いまだに流動的である。
 ただ、後者の名称に関しては、石器がプリミティーブではあるものの、少量の土器をともなう場合もあるので、文化の名称としてはふさわしくないと考えることもできよう。さきの『港区史』では、〝無土器時代〟〝無土器文化〟の名称が使われていたが、こうした使い方は避けたほうがよいと思われる。文化庁でも先ごろの史跡指定に際して〝先土器時代〟を用いているので、ここでもそれに従ったわけである。ただ港区内ではこれまでに、そうした先史時代の明確な遺跡・遺物の発見が報ぜられていないので、これ以上には深く触れることができない。ただし、これら遺跡・遺物の発見は北海道から九州にまで及んでいるから、この時代の人びとが港区内にも住んでいた可能性までを否定するわけではない。多くの方々が遺跡・遺物に関心をもち、できる限りの注意を払うことによって、将来の発見が期待されるわけである。この点に期待を寄せつつ先をいそぐことにしよう。
 また、細説に入る前に、区史として考古学の対象である先史時代というものをいかに取り扱うべきか、という基本的な課題が残されていると思う。したがって、本章では現在の考古学の成果を顧みることからはじめて、とくに区内の主要な遺跡、なかでも現在なお学術上の意義をもち、周知徹底を図るとともに、その保存についてひとしく区民一般の協力を得たいと考えられるものについてのみ、とくに項を改めて詳述することにした。