(二) 縄文時代

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【E・S・モース】 明治十年(一八七七)の十月、三月まえの七月に旧東京帝国大学の招きによって来日したE・S・モース(Edward Sylvester Morse)が、横浜から東京に向かう汽車の窓から発見した大森貝塚を発掘調査したが、これがわが国における近代的考古学研究のはじまりであることはよく知られている。このとき、モースによって収集された出土遺物が今日の眼から見れば、縄文文化後期のそれであったことは明らかな事実である。
 いまここで、その後の研究史をたどることはあまり意味もなく、本書の趣旨とは隔たりがありすぎるけれども、モースによって播かれた種子は、一応すぐれた実を結んでおり、この縄文文化の遺跡・遺物は港区内にも数多く発見されている。現在の時点において、この港区内に人類が居住し、彼らなりの生活を営んだ確実な証左はこの時代にはじまるといえるのであるから、あえて解説を加えることも故なしとしないであろう。
 すなわち、こんにちではモースのわが国における最初の考古学的発掘調査から一〇〇年の歳月が過ぎ、わが国の新石器時代はそのまま縄文文化の時代ということができること、その特徴は打製・磨製両種の石器を大量に製作使用しているが、金属器は認められないこと、狩猟漁労の生活を送り、牧畜農耕の生産手段をとっていた証左に乏しいこと、驚くべき多量の土器――すなわち縄文式土器――を製作使用し、それは形態も複雑で、しかも巧みな装飾が施されている。これらの特徴は世界でも他に類をみないほど顕著であると考えられている。
【「縄文」の時代区分】 とくに注目すべき事実としては、この時代に作られた、いわゆる「縄文式土器」が時代によって著しく変化している点にあり、研究者の多年の努力によって、それぞれの特徴が正確に把握され、草創期、早期、前期、中期、後期、晩期という六期の時代区分がなされている。もちろん、それらの時代区分は決して土器の分類のみに止まるものではなくて、それぞれの時期、あるいは地域における文化の諸相にわたって特色が見られることと相応している点が重要である。同じ縄文文化として一括されてはいるものの、かなりバラエティに富むものであることに注目しなければならない。同時に多くの研究者の努力により地域と時期におけるそれぞれの文化内容についても次第に明確の度を加えつつあるのであって、この学術的な進展のプロセスを顧みる必要が求められる。ただ、ここではその詳細を説くことはふさわしくないと思うので、その事実を指摘しておくにとどめる。