(四) 古墳時代

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【首長層の出現と墳墓】 弥生文化においては稲作農耕が行なわれるようになり、それにともなって土地所有の形態とそれをめぐるもろもろの問題がはじめて発生し、漸次固定化し拡大されて首長層の出現をみたことは、西日本における集落の在り方とか、この時期に特徴的な墳墓――甕棺墓、方形周溝墓などの出現や豪華な副葬品(中国製の舶載品を含む)の存在によって確認されるのであるが、そのような文化と社会がさらに一段と歩を進めるに従い、〝古墳〟と呼ばれる巨大な墳丘をもち、さらに一層優れた遺物を納めた墳墓の盛行をみるにいたる。
 死後そのような古墳に埋葬されたような首長層は東北地方の北半部では激減しているものの、ほぼわが国の全域にわたって存在し、その点では関東地方も例外ではなく、都内においても大田区田園調布の亀甲山古墳、埼玉県の埼玉古墳群とか、群馬県下における多数の大型墳のように他と比較して遜色のない墳丘をもち、副葬品にも豪華な遺物を納めたものがすくなくない。
 この港区内でも増上寺境内の丸山古墳は、とくに顕著な大古墳であり、その他にもいくつかの古墳が存在している。
 右に述べたような農耕文化の発展と金属器利用の普遍化ならびにそれらと並行する階級社会の定着が次第に歴史の時代を産み出すに至ったことは、疑問の余地がないと思われる。そして、その中心が畿内における古代天皇制国家であったことも、ほぼ疑いを容れぬところというべきである。