(32) 南青山六丁目一番、二番貝塚

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 同じく明治二十六年発行の『人類学雑誌』に(31)の貝塚とともに阿部正功氏が報告しており、これが『東洋学芸雑誌』にも登載されているが、前者と同様に詳細は不明である。
【破壊がすすむ遺跡】 これまで述べてきた三二カ所の遺跡が、従来知られている縄文文化の人たちの港区内に残した足跡である。だが、明治以降における急激な都市化現象と、関東大震災および過ぐる戦災による荒廃が重なり、加えて戦後の乱開発もあって、こんにち良好な状態で保存されているものはきわめて少ない。さきにふれたように、(22)の本村町貝塚(現南麻布三丁目)と芝公園内の丸山古墳墳丘下に眠っている貝塚が、運がよければ比較的良好な状態で、部分的に残されているのではないかと思われるにすぎない。
 いずれにせよ、こうした破壊ぶりには、いまにして有効適切な措置がとられなければ、後世の批判を免れまいという感が深い。区民はもちろん、一般の方々の理解と協力をこのさい声を大にして切望するゆえんである。