(二) 弥生時代の遺跡

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 港区内におけるこの時代の遺跡はあまり多いとはいえない。先にあげた『港区史』では、この文化の存続期が短かったこと、また、西日本で起こった文化であるため東日本への伝播が遅れて十分に発達しなかったことなどが、その理由としてあげられている。
 しかし、観点を変えてみるならば、そもそも「弥生式土器」なる名称は、東京都文京区の町名から発祥したものであるし、都内の遺跡もかなりの数に上っているので、必ずしもそうした否定的速断は許されないかも知れない。また、弥生文化が西日本に起源をもち、しだいに東方へ伝播したとする見方にも捨てがたいものがあるが、港区だけを採りあげてみるならば、遺跡の少ない事実は別の視点から解明することができるのではなかろうか。
【稲作に適さない地質】 すなわち、弥生文化が水田による稲作農耕を基盤とする以上、河川の後背湿地とか、その扇状地に位置して集落を営み耕作を行なうのが、とくに初期にあっては一般的であったと推論されている。ところが、港区の場合は、丘陵部分が多く、稲作農耕にいずれの点でも恵まれておらず、丘陵はまた直接に東京湾の海浜に臨み、いくつかの小河川の流域をとってみても、縄文時代には海水が浸入し、前項の諸貝塚を形成させていたのであるから、弥生時代におよんでも流域の低地域に水田を営む好適な諸条件が整っていなかったとみるべきではなかろうか。
 さらに言えば、近世以降の都市化が遺跡の存続を妨げたことも考慮すべきであろう。台地上の諸遺跡においても、こうした破壊の魔手を免れ得なかったのは、後述するとおりである。とくに弥生文化の遺跡では、その土器が縄文土器に比べて特徴が顕著でないために衆目をひくことが少なく、その他の遺物もとくに目につきやすいもの以外は、なおさら人々の注意をひくことがなかったのであろう。そして、次の古墳時代の集落跡についても同じことがいえるのではないかと思う。
 この間にあって、幸いにも思慮深い先人たちによって、次に示すようないくつかの弥生時代の遺跡が記録されているのは、まさしく幸運というほかはあるまい。