(五) 港区の地形の遺跡との相関関係

71 ~ 72 / 1465ページ
 以上、港区内における従来知られている遺跡について述べてきたが、最後にそれらの数多くの遺跡から知り得るいくつかの点について一応の考察を加えてみたい。
 その第一は、いまだ先土器時代の良好な遺跡の発見がなく、縄文文化のもっとも古い時代の遺物を出すそれも明白ではない。しかし、縄文前期以降の各時期を示す土器が発見されており、弥生文化の存在も知られ、古墳時代へと引き続き先史時代人の足跡をたどることも可能ではあるが、それも総体的に見るかぎりでは、特異な点はほとんどないといえるであろう。この点はまた当然のことでもある。
【区内の遺跡分布】 そこで、ただ単に遺跡の存在という点を離れて、その分布を地図上にうつしてみると、やはり一つの特徴はとらえることができる。さらに端的にいうならば、地図上に見る遺跡の所在地は、ほとんどすべてが標高一〇メートルの等高線より高所にあるということであり、なかでも古川の流域に密度が濃いことが知られる。
 この点では、伊皿子貝塚が海岸に直面してやや特異であるが、その他は古川の谷、または、その支谷に営まれたと称して差し支えない。このような遺跡の在り方は、先史時代の地形と港区の自然環境を有力に物語るものというべきであって、同時にわが国先史時代の遺跡の在り方に共通するものということができよう。
 他方からすれば、港区の地形は必ずしも弥生文化以降の水田による稲作農耕に有利であったとはいえないのではないか。都市化による破壊を考慮にいれても、弥生時代の遺跡がそれほど多くないことや、古墳の絶対数が少ないことなどが大きな問題点を内包しているように思われてならない。
 歴史時代に入っても、武蔵国において、とくにこんにちの港区の地域があまり記録に現われることがないのも、耕地とくに水田に適した土地がそれほど広大でなかった事実を示すものかもしれない。十一世紀の『更級日記』に見える亀塚付近の描写にしても、その感を深くするものといえば言いすぎであろうか。
 それはともかくとして、古代港区を考古学的成果から顧みるとき、やはり特殊な場所ではなく、文化的にも異なっていたとする証左を認められないというのが、平凡ではありながらも、きわめて自然な結論ということになるであろう。
 
追補 なお、縄文時代の遺跡の項でも触れたが、現在発掘・調査がすすんでいる伊皿子貝塚では、最近にいたって貝層をめぐって、弥生式土器をともなった方形周溝墓跡を発見し、果たしてこれが弥生時代文化に直接つながるものか否か、もっか鋭意調査中である。(昭和五十三年十月)