第一節 律令制以前の港区地域

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【あずまのくに】 港区地域を含む古代の関東地方は、
 
  古者、自相模国足柄岳坂以東諸県惣称我姫国
 
と、『常陸国風土記』にあるように、律令制以前には総じて「あずま(我姫・吾嬬・吾妻・東)のくに」と呼ばれていた。進んで律令制の下では、『令義解』(公式令)に、
 
  東海道坂東[謂駿河与相模界坂也]
  東山道山東[謂信濃与上野界山也]
 
 とあるように、足柄・碓氷を境にして各々「坂東」・「山東」と呼ばれ、「坂東」のほうが五世紀以前のより古い東国の観念を伝えるといわれている。この点からすると、律令制のはじめ東山道に属していた武蔵国は、それ以降に開発が進行した地域といえよう。また、いわゆる「関東」の呼称は、昌泰二年(八九九)に相模国足柄関と上野国碓氷関が設置されてからのことである(『類聚三代格』)。
【名代・子代の設置】 『古事記』・『日本書紀』では、崇神朝の四道将軍・景行朝の日本武尊(やまとたけるのみこと)の派遣などにより東国の経略が進んだとされるが、これらはすべて伝承の域に留まり、具体的事実を窺うことは困難であろう。大和朝廷の東国経略の足跡は、大化改新以前の皇室の経済的基盤である名代(なしろ)・子代(こしろ)、すなわち天皇・皇族・宮室の名を冠した部民の設置に窺うことが可能である。港区地域を含む武蔵国について、正倉院調庸布墨書銘・武蔵国分寺瓦銘・『万葉集』などの史料にこれらを拾うと、次のようになる(佐伯有清「子代・名代と屯倉」『古代の日本7』所収)。まず、大和朝廷東進の初期である四世紀末から五世紀初頭のものに、
 
  宇遅(治)部(うじべ)(応神皇子菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)、豊島・那珂郡)
  矢田部(やたべ)(仁徳妃八田皇女(やたのひめみこ)、入間郡)
 
次いで、五世紀前半から末期のものに、
 
  刑部(おさかべ)(允恭后忍坂大中姫(おしさかのおおなかつひめ)、豊島・多摩)
  藤原部(ふじわらべ)(允恭妃衣通郎姫(そとおしのいらつめ)、埼玉郡)
  日下部(くさかべ)(雄略后草香幡梭姫(くさかのはたびひめ)、多摩・横見郡)
  白髪部(しらかべ)(清寧=白髪、多摩郡)
 
さらに、六世紀初頭から七世紀初頭のものに、
 
  桧前舎人(ひのくまのとねり)(宣化天皇桧隈廬入野宮(ひのくまいおりのみや)、加美・那珂郡)
  椋椅部(くらはしべ)(崇峻天皇倉梯宮(くらはしのみや)、橘樹・荏原・豊島郡)
  壬生部(みぶべ)(推古紀十五年条、豊島・埼玉)
 
などがみえ、大和朝廷の東国経略の進展の過程を示している。
【武蔵国造】 また、大化改新以前の地方官には国造(くにのみやつこ)があり、『古事記』に天菩比命(あめのほのひのみこと)の子建比良鳥命(たけひらとりのみこと)を无邪志(むざし)国造等の祖と伝えている(『日本書紀』には「武蔵国造等遠祖天穂日命(あめのほのひのみこと)」)。また、『先代旧事本紀(せんだいくじほんぎ)』(国造本紀)は、知々夫(ちちぶ)・无邪志・胸刺の三国造を、武蔵国関係であげている。知々夫国造は、秩父郡と荒川北岸の北武蔵を領域としたとされるが、无邪志国造と胸刺国造については、各々別の国造とする説(『新編武蔵風土記稿』・樋口清之『郷土の歴史・関東編』など)と、重複説(『姓氏家系大辞典』など)がある。
 三国造説をとると、无邪志国造の領域は、北埼玉・足立・比企の埼玉県東南部および入間川とその支流域、胸刺国造の領域は、多摩川とその支流域、すなわち田園調布の亀甲山古墳を中心に考えられ、さらには芝公園の丸山古墳などのある港区地域もその領域内に考えることができようか。
【安閑紀武蔵国造の内紛と四屯倉】 『日本書紀』には、六世紀前半の安閑朝に武蔵国造の地位をめぐる内紛が伝えられている(安閑紀元年閏十二月条=五三一年)。すなわち、武蔵国造笠原直使主(かさはらのあたいおみ)に対し、同族の小杵(おき)が上野国の上毛野君小熊(かみつけぬのきみおぐま)と結んで国造の地位を奪おうとした。これに対して使主(おみ)は、朝廷に助けを求めてその地位を確保し、その代償に横渟(よこぬ)・橘花(たちばな)・多氷(おおひ)・倉樔(くらす)の四屯倉(みやけ)を献上したという。
 笠原直の名は、『和名類聚抄(わみょうるいじゅうしょう)』の埼玉郡笠原郷(鴻巣市笠原付近)に遺(のこ)り、武蔵の後期古墳の中心である北部の勢力と考えられる。また、四屯倉は、横渟が横見の音訛で、後の横見郡(比企郡吉見町付近)または多摩郡横山地方、橘花が『和名類聚抄』の橘樹(たちばな)郡御宅(みやけ)郷(横浜市日吉付近、鶴見川流域)、多氷が多末の誤りで後の多摩郡(多摩川流域)、または「おほひ」と訓んで久良(くらき)(岐)郡大井(横浜市)か荏原郡大井(品川区)に、倉樔が倉樹の誤りで、久良(岐)郡(横浜市、帷子川・大岡川流域)などとされる。これらは誅滅された小杵の旧領を中心に考えられ、前期古墳の先進地として北武蔵に先行する多摩川以南の南武蔵地域、すなわち前述の胸刺国造の領域とみることも可能である。この武蔵国造一族の内紛の背景に、前期古墳文化から後期古墳文化への発展に伴う先進地域の移動、さらには政治勢力の消長交代を窺うことができよう。そして、この内紛は、結果として屯倉という大和朝廷直轄領の設置、すなわち中央勢力の支配強化を生み出したといえる(甘粕健「武蔵国造の反乱」『古代の日本7』所収)。