(一) 桜田郷

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【桜田郷の郷名起源】 桜田郷の地名起源を桜樹と付会させて説明するのは、その用字や訓み(佐久良太)からして考えやすく、『新著聞集』・『求凉雑記』などが、単に「桜の多い所」と解しており、この説に従う書物も多い。また、『望海毎談』は、本多豊後守邸内の桜の大木、『御府内備考』は、源頼朝が霞山稲荷神領寄進の際に植えた桜に由来を求めている。これに対して、『東京地理志料』は、「昔谷間に田ありし」ゆえ「桜田は狭倉田の義か」とし、旧『港区史』は、「佐倉田」の字をあて、御田(郷)の主倉である飯倉に対する副倉または補助倉と推測している。しかし、以上の諸説は、何れも近世以後の解説で、付会の域を出るものではない。
【桜田郷の郷域】 さて、古代の桜田郷の郷域は、中世末・近世の史料から推測する以外にないが、後北条氏の永禄二年(一五五九)の『小田原衆所領役帳』に、
 
  (興津加賀守)
  三拾貫七百文 桜田内平尾分
  (島津孫四郎)
  三拾八貫百五拾文 飯倉内桜田善福寺分
  (太田新次郎)
  弐貫三百文 [江戸]桜田池分
  (太田源七郎)
  拾九貫文 [江戸廻]桜田村西村分
 
などとある。ここにみえる「平尾」と「飯倉」は、現在の広尾(渋谷区)・飯倉(港区)に、「桜田池」は溜池のことと考えられる(『御府内備考』)。また、『江戸名所図会』は、
 
  いにしへ桜田と称せし地は、今桜田御門など唱へ、内桜田・外桜田といふあたり、すべて山下御門の西、虎の御門の外までの名にして、すべてその旧跡ならん歟(か)。
 
といい、『御府内備考』は、
 
  桜田は西丸下より愛宕芝辺まで及びたる郷名とミヘたり。
 
としている。そして、前掲の『日本地理志料』のように、港区北部から千代田区南部・渋谷区東部にわたる地域を想定するものが多い。
【御田郷との境界】 桜田郷は、荏原郡の東北辺に位置し、豊島郡の豊島・湯島・日頭郷などと接していたと考えられるが、その境界は、平川(江戸城内堀の東辺が旧河道)、すなわち小石川と牛込の台地の間の谷が想定されている(菊池山哉『五百年前の東京』)。しかし、『目黒区史』は、近世の状況からの遡及には疑問を投じている。また、近世に到り、桜田郷は北の豊島郡に属し、古川(渋谷川・金杉川)を、さらに川口付近では旧入間川(芝二丁目と四丁目の間)を荏原郡、すなわち御田郷との境界としている。この郡界の移動は、江戸氏の所領関係が原因に考えられるとされる(『千代田区史』)。