(二) 御田郷

88 ~ 90 / 1465ページ
【御田郷の郷名起源】 御田郷は、元和三年(一六一七)の古活字版『和名類聚抄』に「御田」、高山寺本に「美田」と記して「三多」と訓ませている。この用字・訓みから、御田郷の地名起源の諸説をみると、「公田」説・「屯田」説・「神領(田)」説に分かれる。
 「公田」説は、『武蔵国風土記箋註』・『赤坂区史』が唱えるが、これは、次に述べる「屯田」と「公田」とを混同したものである。また、「公田」を「みた」と訓む例も見当たらない。「屯田」説は、『新編武蔵風土記稿』・『日本地理志料』などが唱え、後者は、
 
  御田即王田也、上古毎国置田部、以佃王田、伊賀美濃因幡安芸有三田郷
 
とする。これは、『仁徳紀』などに「屯田」、『養老律令』(田令)に「凡畿内置官田」(『大宝律令』に屯田」)とある天皇供御料田とみることができる。この説は、『東京市史稿』によって継承され、安閑朝の多氷屯倉に付属する御田と解されている。しかし、この「屯田・官田」は、畿内とその周辺に設置されたものであり、武蔵国内にも存在したとするには、一考を要するであろう。
 以上に対して、「神領(田)」説をとるのが『御府内備考』・『江戸名所図会』などで、前者は、『延喜式』にみる荏原郡薭田神社のそれとする。しかし、御田を神田とすることには、やはり問題が残るであろう。
【御田郷の郷域】 さて、御田郷は、『小田原衆所領役帳』に「三田」(太田新六郎分など)とあり、『和名類聚抄』と異なる現代の用字となっている。しかし、桜田郷の場合と異なり、郷域を窺う手掛りはみえない。また、長禄年間(一四五七~六〇)の江戸図(写)には、「三田村」と「銀三田郷」、がみえ、後者は、白金の西にある目黒区三田であろう。これを『新編武蔵風土記稿』などは、もとは広く一地域であったものと考えている。
 『御府内備考』は、
 
  今三田と称する地域、東は大やう芝に隣り、たゞ南よりの方のみ少しく高輪に交わり、西は新川を境として麻布に並び、南は白金に続き、北は赤羽川に限れり。
 
と、近世の府内三田町の範囲を示し、これらの諸説を承けて、前掲の『日本地理志料』は、港区南部から品川区北部と目黒区東南辺にわたる地域を想定している。