(三) 飯倉御厨

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【『吾妻鏡』と『神鳳抄』】 港区内の古い地名のひとつに「飯倉」があり、これは『吾妻鏡』元暦元年(一一八四)五月三日条に、
 
  寄進 伊勢皇太神宮御厨壱処
    在武蔵国飯倉
  右志者、奉為 朝家安穏、為就私願、殊抽忠丹、寄進状如件。
    寿永三年五月三日            正四位下前右兵衛佐源朝臣
 
とあり、そして、『神鳳抄』には、
 
  飯倉御厨[当時四貫文]
  飯倉御厨[長日御幣(物勤之)、五十丁]
 
とみえて源頼朝寄進の伊勢内宮領「飯倉御厨」に連なっている(寿永三年は、四月十六日に元暦と改元)。
【芝大神宮所伝】 飯倉の地名がどこまで遡るかは、にわかには判断しがたいが、寛弘二年(一〇〇五)に伊勢内外両宮を「豊島郡日比谷郷飯倉庄」に勧請して創建されたという芝大神宮(芝大門一丁目)は、別に飯倉神明とも称している(『御府内備考続編』)。これからすると、飯倉は、寛弘二年以前の地名ともいえるが、社伝の類にさほどの信頼はもちがたく、確実な初見は、『吾妻鏡』とするべきであろう。
【飯倉の地名起源】 飯倉の地名起源については、洪水干ばつに備える穀倉、すなわち「義倉」説(『江戸砂子』・『御府内備考続編』)、伊勢神宮の稲を納める穀倉、すなわち「神厨」説(『御府内備考』・『江戸名所図会』・『新編武蔵風土記稿』)などがあるが、『東京市史稿』はこれらを否定のうえ、御田郷(多氷屯倉に属する王田=公田説)との関係からその「穀倉」説を唱えている。
【飯座説】 また、『大日本地名辞書』は、
 
   中世に当り、此地は伊勢神領に属し、今の芝神明は其庤にあたり、其庤も飯倉山の下に在りて、今の丸山即飯倉山なりといへり。因て按ふに、飯盛とて諸方に飯顆状の山名多ければ、此なる丸山も其例にもれず、飯座(イヒクラ)てふ古語は、飯を器に盛りて据ゑ置くことを云ひ、即飯の置座に似たる丸山に名づけて、飯座と云へること明けし。
 
と、『江戸砂子』や『江戸名所図会』などに芝大神宮の旧社地と伝えられる増上寺境内の飯倉山、すなわち丸山(丸山古墳のある丘陵)と関連して、「飯座」説を唱えている。この丸山(飯倉山)には、地主神である飯倉天満宮があった(『江戸名所図会』)というが、この「飯座」説は、古墳と飯や稲に対する信仰・習俗のうえからも注目すべきであろう。
【飯倉の領域】 飯倉の地が芝の地を含むことは、『鉄醤塵蓋抄』慶長七年(一六〇二)条に、
 
  芝浄土宗鎮西派三縁山増上寺、依御拝寺、飯倉辺寺替被仰付
 
とあることからも判る。また、『小田原衆所領役帳』には、前掲の「飯倉内桜田善福寺分」とか「飯倉弾正忠」の名がみえ、近世初頭の飯倉は、桜田から芝に至る広い地域であったことが窺われる。『御府内備考』は、往古の飯倉の範囲を、次のように述べている。
 
  当町起立飯倉と唱候義者旧キ地名に御座候よしニ而相分兼候得共、往古伊勢御神供並御年貢米を入候倉之跡飯倉と地号相唱候よし申伝候。東者増上寺御山内辺より芝切通辺迄、西者六本木より永坂辺迄、南者赤羽新堀辺荏原郡を境、北者西久保辺より我善坊谷辺迄一円飯倉村と唱候場所ニ御座候よし。