(一) 平将門の乱

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【将門記】 十世紀をむかえ、桓武平氏の一人である平将門は下総国より起こって次第に各地へ勢力を伸ばしつつあった。将門は『将門記』によればその父を良持とするが、ほかの系図類では良将としているものが多い。いずれが正しいかは議論のあるところであるが、祖父を高望王(平高望)とする点では一致している。
【将門の父】 将門の父は従四位下に叙せられ、鎮守府将軍に任ぜられ、その長兄(将門の伯父)の国香は常陸大掾(ひたちだいじょう)、鎮守府将軍を、次兄の良兼は下総介などを歴任している。ほかの一族たちにも下総介、陸奥守、下野守、武蔵守などと記されていることからも、その一族の東国における分布には顕著なものがあった。これらの人人が武蔵国とどのようなかかわりあいがあったかは定かではないが、将門の晩年に至り、はしなくも武蔵国と関係をもつことになった。
【武蔵武芝】 承平八年(九三八)に武蔵国足立郡(現在の東京都北部と埼玉県南部にあたる)の郡司に武蔵武芝というものがあった。郡司は、郡を支配する役人で、上司である国守、介、掾などの指揮をうけるが、両者の利害と立場は異にすることが多く、必ずしも円滑なものではなかった。一般的にいって、郡司はその地に祖先以来、長く住みついている者が多く、在地性が強い。これに反し、国の守や介は一定の任期をきめられて京都から赴任してきた役人で、任が満ちれば都へもどってしまうことが多かった。その土地との結びつきかたは緩やかであり、彼らの目はつねに中央指向型で、任国の事情にくらく、そこに住んでいる人々との接触も乏しかった。もちろん、郡司にもこれに近い存在もあったが、その在地性ははるかに濃厚であった。
【興世王】 武蔵国へは承平八年に新しく権守(ごんのかみ)として興世王というものが着任した。権守であるから正任の守ではなく、武蔵国の第二席の官吏ということになる。同じく武蔵の介として源経基が着任した。地方官は守が筆頭で、今日の知事に当たり、二番目が介、以下、掾、目とつづく。この場合のように守のつぎに権守が加わることもある。
 興世王という人物は、ほかの史料に姿をみせないので、まったく経歴のわからぬ人であるが、王と称しているところから、その父か祖父あたりが皇族であろう。生まれた京都では志を得なかったが、遠くの東国の地へくれば貴種(出自が天皇や皇族であるということ)として、権守興世王の権威は相当なものであった。彼よりも上役の正任の守は、まだ着任していないから、武蔵国ではしばらくの間、専制君主になり得た身分である。
【源経基】 武蔵の介として着任した源経基は興世王と比べれば、はるかに氏素姓のはっきりしている人物である。経基は清和天皇の第六皇子である貞純親王の子で、源氏の姓をもらって臣下に降った人物である。将門の祖父平高望と同じような境遇となる。経基はいわゆる清和源氏の祖にあたり、八幡太郎義家はその四代の孫、源頼朝は八代の子孫になる。経基は藤原氏全盛の京都では志を得ることがむずかしく、都落ちして武蔵国へ赴いたのである。
 興世王と源経基の二人は着任後まもなく、足立郡司武芝の勤めぶりが悪いといって非難し、ついで正任の守の着任しないのをよい機会として、武蔵国の各郡内に入り込もうとした。これはたんなる国内の巡検だけに止まらず各所に貯えられている穀物や、さらには財宝のようなものまで、恐らくは手中にせんとしたのであろうか。これに対し武芝は、前例によれば正任の守が着任する以前に、それ以外の者が国内を巡検したりするのは認められぬことであるといい、二人の行動を遮ったのである。
 そこで興世王と経基とは、実力を行使して、国内をみて回り、目的を達成せんとした。このあたりのことは『将門記』の中程に書かれていることで、武蔵国のどこでおこなわれたかは、足立郡を除いて記されていないが、恐らく足立郡に止まらず、周辺の諸郡へも及び、今日の港区の一部もその被害をうけたかもしれない。
 武芝について『将門記』は、「年来公務に恪慬し」と記し、さらに「撫育の方、普(あまね)く民家に在り」と書いているので、郡司としては仕事熱心な、しかも郡内の人々から人望のあったことがしられるのである。
【将門の出馬】 武芝は興世王と源経基により追われて山中に隠れていたが、この様子を下総国からみていた平将門は兵を率いて武蔵国へ赴き、両者の争いを調停しようとした。将門は武芝ともまた興世王、経基とも、それまでなんの関係もなかったようであるが、自ら進んで武蔵国へ入ってきた。
 将門の調停で両者の和議が順調にまとまりそうになったが、経基の軽はずみな行動により、分裂してしまった。この間将門、武芝、興世王、経基らが話し合っていた場所は、武蔵国の国府の近くであったらしい。とすれば、今日の府中市周辺にその場所が求められる。
 将門が今日の港区内に出入りしていたかどうかは確かめようもないが、区の内外は将門をはじめとする騒々しい動きの余波をうけつつ、めまぐるしい時代の流れのなかに遭遇していたものであろう。
【東国の家屋】 平安時代の東国にあって、人々がどのような家屋に住んでいたかは興味深い問題であるが、その解明はかなり困難である。
 『将門記』の記述のなかに「夫婦者親而等瓦、親戚者疎而喩葦」というのがみえる。〝夫婦は親しくて瓦に等しく、親戚は疎にして葦に喩(たと)ゆ〟とよむ。これについて武者小路穣氏は、〝水も洩らさぬ夫婦の仲を瓦葺きの屋根に、厚く葺いても雨の洩れる葦葺きの屋根を近いようでも離れやすい親戚にたとえたもの〟と解釈している。『将門記』では瓦葺きの屋根と、葦葺きの屋根とが対比されて書かれており、恐らく前者は国衙(こくが)(国の役所など)をはじめとする支配者側の建物を、一方、一般農民の住まいから地方豪族の住居(前述の武蔵武芝あたりまでのものを含んで)などが、葦葺きの屋根であったことを示すものではあるまいか。
 『将門記』のこの記事は十世紀のそれを物語るものであるが、それより一〇〇年ほど経過した時代に書かれた、「更級(さらしな)日記」では「蘆荻(あしおぎ)のみ高く生ひて、馬に乗りて弓もたる末見えぬまで、高く生ひ茂りて」とみえ、東国の荒野を馬に乗って弓矢の稽古をしている人々にとって、辺り一帯は葦の高く生い茂ったところであった。また、「あしの丸屋(まろや)」とか、「あしの仮庵(かりお)」という言葉もあるように、雨露をしのぐに足る程度の粗末な家々が各所に散在していたのである。
 『将門記』にみえる「武芝の所々の舎宅、縁辺の民家」とあるものは、おおむねこのような粗家であろうから、一たび襲われたり、火をつけられれば灰燼に帰してしまうものであった。
 国司級の住居や国衙のそれは、それよりも整っており、寺社もまたそれに近いものであろう。
 港区内にどのような家があったか、具体的に知る史料が皆無で明らかにし得ないが、国府よりかなり離れ、また海岸線に近い条件からみれば、「あしの丸屋」の散在していたことが想像されよう。