(三) 武蔵七党

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 平安時代の後期に武蔵国の荒川上流域や多摩川流域にいた武士の集団(武士団)に武蔵七党とよばれるものがあった。当時から鎌倉時代を通じ、武士の集合体=グループのことを「党」とよぶことが多く、各党はいくつかの小族にわかれつつ、全体として同族的結合をなし戦いなどのときには団結してことにあたった。
 武蔵七党という名称は、やや後の史料ではあるが、『太平記』巻十四「節度使下向の事」や、同じく巻十九の「奥勢の跡を追ひて道々合戦の事」などのところにみられる。前者では児玉庄左衛門(児玉党)、長浜六郎左衛門(丹党)などの七党の構成員をあげているほか、「武蔵七党ヲ始メトシテ、其勢二十万七千余騎」、あるいは、「江戸、葛西、三浦、鎌倉、坂東ノ八平氏、武蔵ノ七党」などの記述がみられる。
 武蔵七党の数え方とその名称は一定していないが、横山、児玉、猪股、丹の四党に野与、村山、西の三つを加えるのが普通である(別に野与の代わりに私市を入れることもある)。この七党の根拠地ははじめ武蔵国の北部、山地地帯であったが、一族の分布が広がるにつれて次第に南のほうへ進出してきた。七党の搆成員たちはいずれもその居住地の名を姓としていたのであるが、それ以前からの姓ももっていた。たとえば、丹党の丹治比氏とか、西党の日奉(ひまつり)氏などかそれである。
【『長秋記』】 源師時の日記である『長秋記』の天永四年(一一一三)三月四日の条に、横山党についての記述がみえるのが、武蔵七党についての最も早いものであろうか。しかし、この記事は武蔵国とは直接関係はない。
 東国の武士達の多くは源頼義、義家父子の前九年の役、つづいて後三年の役を契機として、源氏の結び付きがみられ、ことに保元・平治の乱で活躍した武士のなかに武蔵武士が多い。たとえば保元の乱では、豊嶋四郎、安達遠光、中条氏、成田太郎、長井斎藤別当実盛、横山党の横山悪二、平山六二、熊谷直実、児玉党の児玉庄太郎、岡次郎、秩父武者所、猪股党の岡部六弥太忠澄、村山党の金子十郎家忠、河越氏、などがみえる。また平治の乱で義朝に従ったものには前記の長井斎藤実盛、岡部六弥太忠澄、熊谷次郎直実、金子十郎家忠などをはじめとする東国武士たちの名を見出すことができる。これらのすべてが武蔵七党の構成員であるか否か定かにはし得ないが、武蔵国在住、もしくは出自の武士たちであった。
 ここでいう党というもの自体に、かなり曖昧なところがあり、党の惣庶関係(一族の本家と分家との関係)も不明確である。おおむね同一の祖先から源を発し、それが代を重ねて分派した同族的結合に、若干の異族が加わって構成されたのが党とよばれた存在であろう。恐らくは自分たちが称したものではなく、ほかの第三者が、ある同族的武士団を指して名づけて「横山党」のようによんだものであろう。
 各党の出自について多くにふれる余裕はないが、横山党に例をとれば小野氏から出たといわれ、小野篁(たかむら)八世の孫、孝泰が武蔵守となり、その子武蔵権介義孝が土着して、多摩郡横山庄に住み、その地名から横山氏を名乗ったと伝える。義孝の子、資隆は十一世紀はじめに武蔵国小野牧の別当をつとめ、その子、経兼は前九年の役に源頼義に従って功労があったという。その一族は前述の横山庄を本拠として、武蔵国全域に広がり、一部は相模、上野にまで及んだ、横山姓を名乗るものをはじめ、成田、海老名、山口、本間、愛甲などの諸氏が、その構成員の主なものである。