その後の江戸氏

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 鎌倉中期以後、近世初頭にかけての江戸氏の推移は、港区と直接関係するところが少ないが、概観すると、次のようになる。
 江戸氏と畠山氏との関係について、「畠山系図」は重長の箇所で、
 
  江戸彦太郎、法名成仏、畠山重忠横死後、於名字内室賜之、北条氏息女タル故ニ、以源義純為聟継之、於家督ノ分ニハ、重長継之一門棟梁タリ。所謂江戸、木田見、丸子、小日向、柴崎、飯倉、渋谷、高田所々知行因玆如此ツリ畢。
 
とある。これは畠山重忠滅亡後のことを記しているもので、重忠の妻は北条時政の娘であったので、畠山の姓を継がせるために、源義純なるものを聟とした。また、家督については重長に継がせて一門の棟梁としたということである。
 この記事を重視する人もあるが、あとから付け加えられたものと考えるべきで、史料としては信頼度の低いものである。ただここにみられる、木田見、丸子以下の地名の記述は江戸氏の子孫が、これらの地に分かれて、それぞれの地名をとって独立したということを暗示している。たとえば木田見はこんにちの世田谷区喜多見付近に当たり、『慶元寺本喜多見系図』によれば、木田見次郎武重が江戸重長の子供で、木田見の祖である。木田見氏はその後、長らく木田見の地を占め、その一族は十四世紀はじめに木田見郷で二〇町余の所領を有していたことがわかる。(嘉元二年〔一三〇四〕五月一日、鎌倉幕府下知状、「熊谷家文書」)
 武蔵国千束郷(今の台東区浅草千束町付近)には、江戸重通が十四世紀のはじめにおり、一族の江戸弥太郎と争いをつづけ(正和四年〔一三一五〕七月八日「北条随時奉書」)、南北朝時代には江戸氏のほかの一族は、遠く出雲国安田庄の北方の地頭として、この庄の本家である石清水八幡宮の神領の押領をはかっている(「石清水文書」建武五年〔一三三八〕八月二十七日 足利直義下知状)。同じく南北朝時代には荏原郡の牛込郷に、江戸近江権守が所領を有している。
 以上は、いずれも港区とは直接的に関係のないことではあるが、武蔵国の南西部のかなりの地域をその一族が占めていた江戸氏が、現在の港区一帯に何らかの影響を与えていたことは想像に難くないので、概略を記したしだいである。