平賀義信のあとの武蔵国司

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『吾妻鏡』の建仁三年(一二〇三)十月八日の条に、前武蔵守義信とあるので、これ以前に義信は武蔵守を退いていることになる。いつやめたのか正確なことはわからないが、元暦元年(一一八四)に武蔵守となって正治のはじめごろまでの一五、六年間、その任にあったのであろう。
 義信のあとの武蔵国司には、だれが任ぜられたのであろうか。
【平賀朝政】 『吾妻鏡』の正治二年(一二〇〇)二月二十六日の条は、二代将軍頼家が鶴岡八幡宮へ参詣する記事をあげているが、このお供のなかに、武蔵守朝政という記載がある。このころ、幕府の重臣で朝政と名乗る人物は、もう一人、左衛門尉朝政がいるが、このほうは小山氏である。この武蔵守朝政は、平賀義信の子、朝政である。そのあと、建仁三年(一二〇三)九月二日の記事へつづき、翌元久元年四月二十一日の条へかけて、武蔵守朝雅(朝政は元久元年のはじめに朝雅と改めた)とみえ、元久元年十一月二十日の条では、武蔵前司朝雅と記されているので、朝政(雅)の武蔵守在任は正治二年(一二〇〇)二月から元久元年(一二〇四)の中ごろまでの四年余となる。
 朝政の武蔵守就任の正確な年月は確かでないが、その『吾妻鏡』初見の正治二年二月の三カ月前の正治元年十一月三十日に、武蔵国は田文を整える作業をしている。これは故将軍家(頼朝)の時に惣検(武蔵国の田をすべて検査したこと)をしたが、まだ田文が作られていなかったので、この正治元年十一月に作製したのであるという記述である。これが義信によるものか朝政の手になるものかはよくわからないが、義信が頼朝の死(正治元年一月)の直後、武蔵守をやめて、子の朝政があとを継いだとも考えられるので、朝政により田文が作製されたのであろうか。
 いずれにせよ、義信が惣検したものを、義信か朝政により整えられたのであるから、十二世紀末の武蔵国の田文の作製には、この父子の果たした役割は大きかった。
 なお、平賀朝政は前述のように武蔵守の地位にあったが、建仁三年(一二〇三)十月三日には、京都警固のために上洛し、武蔵の地を離れており、翌元久元年三月九日の記事では、引つづき朝政は京都に滞在し、伊賀国で起こった伊賀平氏の乱について鎌倉へ報告をよせている。
 ついで同年五月十日には、伊勢平氏の追討によって朝雅(政)は伊勢国守護職に任ぜられたが、武蔵守がどうなったかは定かでない。そして、同年十一月二十日の条に前述のとおり、武蔵前司朝雅とみえるので伊勢の守護に任ぜられたころ武蔵国司をやめているのではあるまいか。
 義信と朝政の武蔵国司在任を例示すればつぎのようになる。
  元暦元年(一一八四)六月――→正治元年(一一九九)ごろまで 義信
  正治二年(一二〇〇)二月――→元久元年(一二〇四)五月ごろまで 朝政
【北条時房】 平賀朝政(雅)についで武蔵国司になったのは北条時房である。彼は、時政の子で、執権義時の弟にあたり、政子とも兄妹である。
 時房が武蔵守となったのは、建永二年=承元元年(一二〇七)一月であり、これ以後、将軍家知行国である武蔵国司は、代々北条氏の人々により、それも本宗に近い人々によって相承されていくことになった。いわば時房はその最初の人といってよい。時房は建保五年(一二一七)のすえに相模守となるまで十一年間、その位置にあった。
 時房の武蔵国司としての仕事をみると、はじめのころは平賀義信の例に準拠していたが、次第に独自の支配体制を作り上げていったようである。いま『吾妻鏡』にみえるいくつかの例をみるとつぎのようになる。
【荒野の開発】 時房はその任についてまもなく、荒野の開発を地頭らに命じ(建永二年三月)、ついで承元二年(一二〇八)の五月に狛江入道増西なるものが五十余人を率いて、武蔵国威光寺の領内に乱入し、苅田狼藉(ろうぜき)(田の稲などを勝手に刈りとってしまうような乱暴な行為)をおこなっているが、この時、時房はその解決のために何らかの役目を果たしていたと思われる(『吾妻鏡』には時房についてはまったくふれていない)。
 承元四年(一二一〇)三月には、武蔵国の田文の作製を幕府から命ぜられている。武蔵国はこれより十五年前の建久七年に国検をおこなったが、まだこの時現在、目録になっていなかった。
 建暦二年(一二一二)二月には、幕府は武蔵国の国務の興行の沙汰を時房に命じているが、ここでの国務の興行の沙汰とは、一般的には国務をより盛んにする、あるいは強化するという意であるが、ここでより具体的には『吾妻鏡』にみえるように国内郷々に郷司職を任命することを時房に一任したものである。これにたいして、北条泰時は、反対の意見を示しているが、時房は平賀義信の時代の例によって、泰時の意見に従っていない。恐らく、義時―泰時とつづく北条氏の本宗と、北条氏ではあっても、分家にあたる時房との微妙な立場の違いからきた対立であろう。
 同年十月に幕府は奉行人を遣わして、関東御分国における民庶の愁訴は、その国で沙汰する(庶民からの訴えを国司の判断と責任で解決する)ように指示している。武蔵国も御分国の一つであるので、これより国内における庶民からの訴訟は、時房のとり扱うところとなった。
 建暦三年五月には、鎌倉幕府の重臣であった和田義盛が乱を起こしたが、時房はその防御にあたった。同年十月に武蔵国の新開(新しく開墾した田)の実検がおこなわれているが、時房の名は『吾妻鏡』にみえない。
 以上が武蔵国あるいは時房に関することがらであるが、このうちで重要なものは承元四年(一二一〇)の武蔵国田文の作製である。
【大田文】 田文はまた大田文あるいは図田帳ともいわれ、鎌倉時代に一国ごとに国内の田地の面積、領有関係などを記載した土地台帳のことをいう。
 現在、残っている大田文は断簡のものまで含めると十八カ国にわたる。
 武蔵国の国司の位置は、平賀朝政のあと、北条時房、足利義氏、大江親広、北条泰時、北条朝直、北条経時、北条時頼、北条長時、北条時宗と歴任された。時房は前述のとおり義時の弟で、泰時には叔父にあたる北条氏の一族であり、足利義氏と大江親広の二人を除き、その後の国司はいずれも北条氏の手中に帰した。とりわけ、泰時よりその嫡孫経時、時頼、時宗へつながる系譜は、北条氏の得宗家(とくそうけ)とよばれる主流であり、武蔵国は十三世紀中頃にはほぼ北条家の権力下におかれることとなった。これらの得宗家の人々は鎌倉幕府の執権であり、また連署、あるいは六波羅探題などの要職にあったから、これまでの平賀父子のように武蔵国司専任というわけではない。
 北条氏の国司のもとに、江戸、葛西、河越、豊島などの諸氏が、あるいは武蔵国惣検校職として存在し、またときには郡司、郷司などの身分をもつ中小武士たちが置かれていた。