(一) 武蔵国の荘園

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 清水正健氏の『荘園志料』をみると、武蔵国の南部地域の荘園として、荏原郡の六郷保(今日の大田区内に当たる)、同郡菅苅荘(目黒区から世田谷区にかけてがそれに当たるらしい)、豊島郡では豊島荘と飯倉御厨(みくりや)とがあげられている、畿内の荘園と違って、その荘の成立、区域、由来、内部構造などを知る史料は甚だ乏しい。港区内のものとしては飯倉御厨がある。
【飯倉御厨】 御厨とは、伊勢大神宮の供物を調進するための荘園のことをいう(例外として京都の賀茂社の場合もある)。その数も全国で数百カ所に及んでおり、多くが古代末から中世にかけて成立したものである。
 飯倉御厨は、寿永三年(一一八四)五月に、源頼朝により伊勢大神宮内宮御分として寄進された(『吾妻鏡』寿永三年五月三日条)。この御厨からどの程度の上納があったかを知る史料はないが、ほかの御厨の例をみると、白布を三〇反とか、絹を三〇疋、あるいは御幣紙を何百帖のように納めているので、飯倉御厨でも供祭物として、これに類した品物を進納していたと思われる。
 飯倉という地名はこんにちは麻布の東端の部分を示すが、古くはかなり広い地域を含めていたらしい。古代、中世のことはよくわからないが、『新編武蔵国風土記稿』では飯倉について、「東は増上寺山内より芝切通辺まで、西は麻布竜土六本木より永坂辺に至り、南は赤羽新堀を限りて荏原郡に界ひ、北は西久保辺より麻布我善坊谷迄の間、古は一円にこの村中なりしと言」う、と記しているからある程度、その広さのほどがわかろう。