(一) 室町幕府初期の関東経略

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【建武政権】 隠岐島から脱出した後醍醐天皇は諸国へ命令を下し、鎌倉幕府の打倒を実行にうつした。これに応じて、非御家人や悪党勢力である楠木正成、名和長年らが最も早く兵を挙げ、ついで、反北条氏的豪族といえる少弐、大友、菊池などの諸氏が起ち上がった。
 そして、討幕に決定的な影響を及ぼしたのは、軍事力において一段とぬきんでていた幕府側の武将であった足利高氏(のち尊氏)、新田義貞らの加担であり、元弘三年(一三三三)五月にいたって鎌倉幕府は滅亡し、ここに後醍醐天皇の意図が達成された。
 後醍醐天皇を中心とした建武政権は、記録所、雑訴決断所、武者所、恩賞方などを設けて、天皇中心の新しい政治を遂行しようとしたが、まもなく建武政権に対し恩賞の問題を中心として不満をもった武士たちが多くなり、やがて彼らは足利尊氏を中心として結集し、急速に勢力を伸ばしていった。
 尊氏の新しい武家政権の樹立の計画の障害となったものは、後醍醐天皇の皇子護良親王および新田義貞の存在であった。やがて、護良親王は鎌倉に幽閉の後、殺害された。建武二年(一三三五)に起こった北条高時の遺子時行の反乱(中先代の乱)は尊氏に挙兵の機会を与えた。それに対して朝廷では、尊良親王と新田義貞とを追討の将として東国に派遣したが、これは天皇方の敗北に終わった。
 それを追って京都へ入った尊氏は、義貞、楠木正成、北畠顕家らの連合軍に敗れ、九州へと逃げた。建武三年に尊氏は勢力を回復して東上し、楠木・名和らを倒した。さらに尊氏は、朝敵という汚名を避けるために持明院統と結び、光厳天皇の弟を即位させ、建武三年(延元元年)に光明天皇とした。これ以後、南北両朝が相並ぶこととなり、以後約六〇年間は世に南北朝時代と称され、両者は年号も異なるものを用いた。
【南北朝時代の東国武士】 鎌倉幕府の滅亡から南北朝時代を通じて、武蔵の武士たちはどのように対応していたのであろうか。
 元弘三年(一三三三)八月に、後醍醐天皇が討幕の兵をあげてまもなく、鎌倉幕府は足利尊氏を大将として笠置城を攻め、これを落城させた。この時、尊氏に従った幕府側の軍勢は、武蔵、相模、伊豆、駿河、上野などの東国の武士たちであったというから、武蔵武士の参加も少なくなかった。江戸、豊嶋、葛西などの諸氏の参加も当然考えられるが、武蔵七党の一家、横山、猪股の両党の参加がみえるほかは、史料に示されたものは少ない。『太平記』巻三によれば、その武士のなかに桜田三河守と葛西三郎兵衛尉などの名がみえる。桜田氏は恐らく江戸の桜田郷を支配していた武士と思われ、葛西氏は前述の秩父流の一家である。
 元弘三年(一三三三)八月に、足利尊氏は武蔵、相模、伊豆の三カ国を知行国として与えられたので、一族の細川氏、ついで弟の直義らを東国へ下して尊氏の嫡子千寿王(のちの義詮)を補佐せしめた。このあたりから武蔵を含めた東国の武士たちは、旧領を安堵され、尊氏・直義兄弟のもとに集まりはじめた。
 足利尊氏が、京都を中心として室町幕府の基礎固めをしていたころ、武蔵、相模を中心とする東国にあった足利側の中心人物は、尊氏の子、千寿王(義詮)であった。彼は執事の高師冬や上杉憲顕に助けられて東国の政務にあたっていた。千寿王には江戸、豊嶋などの武蔵武士が仕え、武蔵国の経営に当たっていたと思われるが、十四世紀中ごろの彼らについて知り得る史料は極めて少ない。
 足利直義は尊氏の弟で、はじめは兄を助けて尽力したものの、のち兄弟不和となり殺害されたが、南北朝時代はじめの建武四年正月に下した直義の文書が芝大神宮に残っている。この文書の詳細については別に述べるが、大神宮にたいし戦勝祈願の祈祷を依頼したもので、貴重な史料の一つである。
【足利基氏】 義詮についで東国の守りには、その弟基氏がついたが、これがいわゆる関東公方の始祖であり、時に貞和五年(一三四九)のことであった。基氏の補佐にあたったのは上杉憲顕と高師冬とであるが、前者は足利直義に近く、後者は尊氏とその腹臣高師直の一党であった。
 尊氏・直義兄弟の仲が著しく不和となりつつあったこのころ、基氏の周辺も騒々しくなってきた。上杉憲顕と高師冬とはそれぞれ武蔵、相模の武士の来援を求め、貞和六年=観応元年(一三五〇)から戦いをはじめた。
 正平七年=観応三年(一三五二)二月に、直義が殺害されてまもなく、上杉憲顕が尊氏に対し兵を挙げた。ちようどこのころ南朝側の新田義興、義宗らが宗良親王を奉じて上野国で兵をあげ、閏二月に武蔵国へ入ってきた。同月二十日を中心として新田一族と尊氏との戦いがいわゆる武蔵野合戦といわれるものである。戦いは紆(う)余曲折の結果、三月に入ってようやく尊氏・基氏側の勝利におわった。
【武蔵野合戦】 この武蔵野合戦には、かなりの武蔵武士たちが動員されたようで、武蔵七党の児玉党に属する浅羽、中条、丹党の中村、安保、野与党の桜井、太田、西党の平山、横山党の横山、村山党の村山などの諸氏は、新田方に従い、これに対し佐竹、結城、小山などの下総、常陸、下野の武士たちと江戸、河越、豊嶋の諸氏が尊氏側に参加した。