【平一揆の乱】 足利基氏の没後、関東公方を継いだのは、その子、金王丸=氏満である。京都でも将軍義詮が死去し、義満があとをつぎ、その祝賀のために上杉憲顕が上洛した。憲顕の留守中に、これまで彼に不満をもっていた東国の武士たちが反乱を起こした。その中心は河越、高坂の両氏と宇都宮、江戸、豊嶋などの諸氏で、武蔵国の武士たちの参加が顕著であった。この事件は氏満と、それを助けた上杉朝房、憲春らの働きによって三カ月ほどで平定された。この乱を武蔵の平氏たちの起こしたものであるところから平一揆の乱とよんでいる。
江戸氏と豊嶋氏とは、この事件の主謀者ではなかったようだが、敗北の結果、かなりの所領を失ったものと思われる。だが、それらの庶流(分家筋)では、直接関係しなかった家もあり、その後の江戸氏一族の動向を示す史料も多少残されている。
『東京市史稿』皇城篇に収められているつぎの文書は、江戸房重の動向を示すものである。
「修理権大夫兼頼書状」
江戸宮内少輔房重、於二当国一多年致二忠節一候、被レ懸二御意一可レ有二御披露一候哉、恐々謹言
三月十日 修理権大夫兼頼(花押)
謹上 上椙兵部少輔入道殿
(よみかた)
江戸宮内少輔(くないしょうゆう)房重、当国において、多年忠節を致し候、御意(ぎょい)にかけられ、御披露(ごひろう)あるべく候哉(や)、恐々謹言(きょうきょうきんげん)
三月十日 修理権大夫兼頼(花押)
謹上(きんじょう) 上椙(うえすぎ)兵部少輔入道殿
『関東武士研究叢書1』「江戸氏の研究」所収。前島康彦・杉山博・萩原龍夫三氏の「武蔵江戸氏関係文書 二一」による。
この文書は、三月十日とだけあって年の記載がないので、年代の推定が必要となる。あて名の上椙は上杉と同じで、兵部少輔入道は能憲と思われるところから、彼が上野国守護であった時代にあてられたものとすれば、応安元年(一三六八)から永和二年(一三七六)までの九カ年間の文書となる。差出し者の修理権大夫兼頼についてもまったく知るところがなく、上野国の守護代かと推定する人もあるが、推定にとどまり、それ以上はわからない。いずれにせよ、この文書をみると、江戸宮内少輔房重なるものが当国(上野国か、あるいはその他の国か。不確かであるが)において、上杉氏のために忠節を尽したことがわかる。房重は延文元年(一三五六)九月の文書にもその名がみえ、江戸重通の子で、重村の弟にあたる人物である。
なお、房重の父重通と、兄重村に関する文書が前者は原文書が正宗寺に、後者は『古簡雑纂』のなかに二通収められている。この三点もあわせて、つぎに本文のみを示しておこう。
「鎌倉公方足利義詮御教書」 (正宗寺文書)
江戸次郎太郎重通申、武蔵国石浜、墨田波、鳥越三ケ村事、重訴状如レ此、石浜弥太郎入道乍レ捧レ状帰国云々、無レ謂、為レ有二其沙汰一、不日可レ参之由、相二触之一、可レ執二進請文一、若難渋者、載二起請詞一、今月中可レ被二注申一、使節遅引者、可レ有二其科一之状、依レ仰執達如レ件
貞和二年九月八日 駿河守(花押)
小杉彦四郎 殿
「江戸重通代同重村着到状」 (『古簡雑纂』)
着到 武州江戸次郎太郎重通代子息弥六重村、右、自二去二月十七日一墨田馳参、至二于三月十八日一、警固令二勤仕一候畢、仍着到如レ件
貞和三年三月廿四日 承了(花押)
「江戸房重代同高泰着到状」 (『古簡雑纂』)
着到 江戸宮内少輔房重代同六郎四郎高泰、右、入間河御陣警固事、為二二番衆一自二今月一日一至二于同晦日一令二勤仕一候畢、仍着到如レ件
延文元年九月 日 承了(花押)