永享の乱(一四三九)により足利持氏が死んだあと、しばらくして、その子、永寿王=成氏があとをついだ。彼を補佐したのは、里見、結城、小山、宇都宮、千葉などの諸氏である。
持氏に敵対していた上杉氏では、山内家は憲実から憲忠へかわり、扇谷家は持朝より顕房へかわっていたが、両家ともその家臣である長尾景仲(昌賢)と太田資清(道真)とによって実権が奪われていた。成氏の代になっても、この二人の力は強く、成氏との仲は険悪であった。享徳三年(一四五四)に、成氏が山内憲忠を殺害したことから、両上杉氏と成氏との関係は一段と悪化し、これ以後、関東一帯は戦乱のつづく状態となった。憲忠の弟房顕が山内上杉氏の跡をつぎ、成氏と武蔵の分倍河原で戦い、幕府は山内上杉氏に加担したこともあって、成氏は鎌倉にいることができず、康正元年(一四五五)には下総国古河へ落ちのびた。
扇谷上杉氏の家老である太田資清は、同年家督を子の資長へ譲った。すなわち太田道灌である。
【太田氏】 太田氏は、もと清和源氏の流れといわれ、丹波国五箇庄と丹波国太田郷に発し、その付近の上杉庄の地頭であった上杉氏に仕えて、主従関係にあったといわれる。のち、建長四年(一二五二)に宗尊親王が将軍として関東に下向したとき、上杉、太田の二氏もそれに従って関東へ移ったという(太田家譜)。
上杉氏は、鎌倉時代末に頼重の娘が足利貞氏に嫁して、尊氏、直義を生んだので、足利氏の外戚となり、尊氏の時代から権力をもつようになった。上杉氏は上野、伊豆、武蔵、上総、越後などの国々の守護に任ぜられ、東国がその活躍の場となり、その後、関東公方の補佐役として管領職、執事職を代々つとめた。
太田氏は前述のように上杉氏が二家にわかれてから、扇谷家へ仕え、その家老をしてきたのである。
太田資長(道灌)は下総の古河城にいる成氏と上総、下総の千葉、結城、里見などの諸氏に対抗するために、城を築くことを考え、その候補地として江戸平川の台地を求めた。この地は十二世紀以来、江戸氏の居館のあったところであるが、応安元年の平一揆の事件により江戸氏が弱体となってからその主を失っていた。江戸平川の地は、現在の皇居(千代田城)の一隅にあたる。
平川の台地は上総、下総に通ずる交通路に近く、隅田川の西岸に位置し、海岸線にも接近し、海陸両路に便利であった。
道灌による江戸城の造営は康正二年(一四五六)にはじめられ、翌長禄元年には一応完成したとされるから、迅速になされたものであろう。その後三〇年、道灌はこの城を本拠地として近隣に活躍した。ちょうどこの時代は京都では八代将軍義政の時代のはじめで、管領細川勝元の力もあって、将軍権力の回復につとめつつあった。
関東では、両上杉氏の当主の死もあって、道灌に対抗できる人物が乏しく、道灌の存在は近隣を圧するようになっていった。
【江戸城築造】 太田道灌によって築造された江戸城について直接、その構造などを知る史料は残されていない。築城後二〇年たった文明八年(一四七六)に書かれた蕭庵龍統(しょうあんりゅうとう)の「寄題江戸城静勝軒詩序」という詩の序文、ならびに希世霊彦(きせいれいげん)がそれに寄せた跋文、同年、暮樵得么が書いた「左金吾源大夫江亭記」、さらにその一〇年後に万里集九が書いた「静勝軒銘詩並序」などが江戸城を知ることが可能な史料である。
これらのものは、いずれも禅僧による詩文で江戸城そのものについて直接書かれているものではない。彼ら禅僧たちがいずれも道灌と親しく、江戸城を訪れ、あるいはそこにしばらく滞在して書き記したものであるから、江戸城の構造の一端はうかがえるのである。
ここにあげた詩文にみえる、静勝軒というのは江戸城内に設けた道灌の居室で、中国の兵書にみえる「兵は静なるを以て勝つ」という句からとってつけたといわれる。この道灌の居室に招かれた禅僧たちが、城内の様子を詩文であらわしたものである。
江戸城については、『東京市史稿』皇城篇五冊がもっとも詳しく、基本的史料も網羅されている。また、近年刊行の『千代田区史上巻』(昭和三五年刊)の主として杉山博氏執筆分は、先行の前島康彦氏、菊池山哉氏の論文とともに参考になるところが大きい。
それらによって道灌の築いた江戸城について若干みてみたい。
道灌の築いた江戸城が現在の千代田城(皇居)のどこにあたるかは江戸時代から論争があったが、こんにちでは、旧本丸、旧二ノ丸がそれであるとされる。この地は、南北に掘られている三日月堀(乾堀)と蓮池堀との東側の丘陵で、北桔梗橋、平河門、大手門、桔梗門、坂下門に囲まれた内部にあたる。すなわち、現在の北は書陵部、楽部から、東は宮内庁病院、警察学校、南は皇宮警察本部などのある一帯がそれと推定され、巷間みられる地図上にも旧本丸と記されている付近である。この一角に前述の静勝軒もあったのであろう。
【太田道灌の活躍】 太田道灌は江戸城に拠って、その後三〇年間近隣に活躍したが、その生涯は足利氏と上杉氏の対立を中心として中・小の武士たちの台頭と対立、戦乱による混乱と複雑化があいついだ時代である。文明五年(一四七三)には、山内上杉氏の家宰である長尾景春が主人の上杉顕定に叛し、足利成氏方へ味方した。景春側にあった武蔵の武士たちのなかで、豊嶋氏や相模の溝呂木(みぞろぎ)氏は同じく成氏側へ走った。文明十年になって足利成氏と上杉氏との間に和議が成立した。これまで山内上杉氏と道灌の主人扇谷上杉氏(定正)とは比較的平穏で、ともに協力しながら成氏に対抗していたが、このころより山内上杉(顕定)は成氏と手を結び、山内と扇谷の両上杉氏の対立は激化してきた。この間、太田道灌はあるときは相模に、時には武蔵に、また千葉氏の問題が起こると下総の地へと進んで戦い、長尾景春を討ち、豊嶋氏、溝呂木氏を征圧した。文明十一年から十二年にかけてのことである。その後の数年間、相模、武蔵の地は比較的平穏であったが、文明十八年七月に至り、道灌はその主人上杉定正のために殺害された。
【道灌殺害される】 上杉定正が忠実なる家臣である道灌を何故に殺したのか、その原因について知る史料には、定正が道灌の死後三年たったころ、家臣の江戸城代曽我豊後守へ送った書状がある。これは「上杉定正状」とよばれるもので、本書は残されていないが写しが現存する。これによると、太田道灌が城を堅固して、山内顕定に対して不義を企てているので自分が注意したが、道灌が命をきかずに謀反を企てたので、自分は誅罰したのであると記し、このように山内顕定のためを思って注進してやったのに、その翌々年に顕定は自分に対し干戈を交えるにいたったのは、けしからぬことであると書かれている。
山内上杉と扇谷上杉とは不仲であったからこのような定正のいい方はおかしく、真実を伝えているものとはいい難い。忠実なる家臣で戦いに巧みな道灌を殺したのは、先見の明のなさを示すものであった。恐らくは、太田道灌の名の高まりと、江戸城の堅固さが、主人の定正には快く思われず、またその周辺の奸臣たちと道灌とがうまくいかなかったことなどに原因があったのではあるまいか。
道灌を失った扇谷上杉氏は、まもなく定正が没し、その後しばらくして、山内上杉氏のために平定されることになった。しかし、このころ駿河、伊豆にあった伊勢新九郎長氏は、関東の様子に乗じ、明応四年(一四九五)二月には、扇谷上杉氏の一拠点である小田原を攻め落とし、十六世紀はじめには着々とその勢力を伸ばし、武蔵へ及んできたのであった。