(二) 『小田原衆所領役帳』

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 戦国大名としての北条氏が、氏康の時代=永禄二年(一五五九)二月に作りあげたもので、ときには「小田原役帳」「北条家有限帳」などともいわれるが、表題の名称でよばれることが多い。
 本書は、北条氏がその一門と家臣などへ諸役を賦課する必要上、その諸役賦課の基準である各人の役高を明記したものである。各人の役高の基準は土地にあったから、北条氏はそれを賦課の単位である貫高で示し、それにあわせて地名を記した。
 狩野大膳亮、江戸阿佐布、五拾三貫弐百文と記されているとき、それは阿佐布の全生産高が五拾三貫弐百文ではなく、また狩野大膳亮のこの地における全所領が五拾三貫弐百文ということを必ずしも意味しない。ここでは狩野が阿佐布で五拾三貫弐百文の役高を持っていることを示すにすぎない。また、本書は北条氏の家臣すべての全所領を明記した知行目録でもない。
 この役帳はおわりに「永禄二年己未二月十二日」と記されていることから、この年に作られたとされるが、諸本が各所に所蔵されることなどから、少しずつ作られ、その最後が永禄二年二月であると考えられる。この間の考証は繁雑になるので避けたいが、近年の研究によれば永禄二年以前より逐次編さんされてきたものであるとされる。
 役帳の内容をみると、衆別に北条氏の家臣名と、その役高、および郷名が列記されている。はじめは、小田原衆三四人で、ついで御馬廻衆九四人、玉縄衆一八人、江戸衆一〇三人などとつづき、小机衆二九人までの一六分類で、五六〇人にのぼる。
 本書は江戸時代から知られていた史料で、各時代の歴史家、その他に珍重されてきた。それは本書に伊豆、相模、武蔵の三国の郷村名がくわしく書き記されていたからであり、こんにちでもこの面での利用価値は高い。
 本書より港区に関する地名、その他をもとめて参考に供したい。
 
   御馬廻衆知行役之帳
     (中略)
 一 狩野大膳亮
  五拾三貫弐百文江戸阿佐布(三〇頁)
     (中略)
 一 大草左近大夫
  卅九貫七百八十文飯倉之内前引(三九頁)
 
   江 戸 衆
     (中略)
 一 川村跡
  五拾五貫文江戸新倉(六七頁)
     (中略)
 一 興津加賀守
  買得 卅貫七百文元板橋知行江戸桜田内平尾分(七一頁)
     (中略)
 一 島津孫四郎
  三拾八貫百五拾文飯倉内桜田善福寺分(八〇頁)
  拾九貫九百文金曽木内法林院分 金剛寺分
 一 島津衆太田新次郎
  弐貫三百文桜田池分(八二頁)
     (中略)
 一 飯倉弾正忠
  弐貫八百七十弐文飯倉之内(八三頁)
 一 太田大膳亮
  六拾弐貫六百文一木貝塚丙申検地辻(八四頁)
 一 太田新六郎知行
  拾四貫八百五拾文江戸飯倉内小早川同人(九四頁)
  五貫文江戸三田内寿楽寺分  品川分(九五頁)
  弐拾貫文
  三貫七百文三田内  箕輪寺屋分
     (中略)
 一 中村平次左衛門
  拾貫四百文江戸三田内  高福寺分(九九頁)
     (中略)
 一 本住坊寺領
  拾八貫四百十五文三田内惣領分(一〇〇頁)
杉山博校訂 『小田原衆所領役帳』 近藤出版社 昭和四四年刊による。
各項の下の頁はこの書物の頁数を示す。
なお、『東京市史・外篇』にも収められている。

 ここにあげた役名、人名、地名について若干の解説をしておこう。
 御馬廻衆は大将の馬の廻りに付き添っている武士たちのことを指し、武勇に優れた人々の集まりであろう。家臣団のなかの中心的存在といえる。狩野氏は伊豆衆二一家の一つといわれる。阿佐布はこんにちの麻布である。
 飯倉之内前引はこんにちの飯倉のうちであるが、前引はよくわからない。
 江戸衆は、戦いのとき江戸城代の指揮をうけた武士たちのことを示すものと思われ、武蔵国における北条氏の中枢武士団といえる。一〇三人を数えることができ、貫高をみると十貫文以下から一、〇〇〇貫文以上までと幅が広い。
 川村跡の江戸新倉については、古くから諸説があり、新座郡(埼玉県)とする論者が多い。あるいは飯倉の誤りかともいうが定かでない。
 江戸桜田内平尾分はこんにちの港区内広尾とする考え方が強いが、桜田という地域はかなり広いので千代田区内より本区の麻布、芝一帯を示すとも考えられる。
 飯倉内桜田善福寺は、今日の麻布善福寺周辺を指し、金曽木は本区の金杉とも考えられるが、北区のそれか、あるいは小石川のそれとも推定される。桜田池分はこんにちの溜池あたりとされる。一木貝塚は前述のとおり麹町か赤坂一ツ木辺りと思われ、銀はしろがねとよみ、こんにちの白金付近と考えられるが確証はない。三田箕輪寺と高福寺とは本区であるが、いずれかはよくわからない。
 飯倉弾正忠は、江戸太郎重長の子である飯倉秀重の子孫かとも思われるが、それ以上のことはわからない。
 太田新六郎は康資といい、太田道灌の子孫で、北条氏の江戸城攻略に功労のあった資高の嫡子である。のち、永禄六年に北条氏に叛しその後攻められて安房へ落ちのびた。