(二) 善福寺所蔵文書の解説

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文書 (1)
 顕如は光佐といい、父証如の死により天文二十三年(一五四五)に跡をつぎ本願寺十一世となった。本願寺は永禄・天正年間、毛利氏などと結び、織田信長と争い、ついに信長に攻められて石山本願寺へ籠域することとなった。天正四年(一五七六)より八年にかけてのことである。ここに紹介した文書は顕如より相模の真宗関係の有力寺院へ送られたものの一通で、本文のはじめに「仍当寺之儀去年以来籠城」云々とあることから、天正五年のものと推定される。
 内容は去年以来の籠城のために諸人の疲れが甚だしく、真宗の法義も破滅にひんしているので、今後の御援助を乞いたいこと―兵糧の調達、法義のこと―などが記されている。
 なお、『麻布区史』や『港区史(昭和三十五年)』にあげられてあるよみかたには誤りが多いので注意が必要である。
 
 文書 (2)
 本文書は(1)の光佐(顕如)の書状の添状である。頼龍は下間(しもつま)氏で顕如の三家老の一人である。顕如の書状の旨をより詳しく知らせるためにこの文書をしたためて善福寺へ送った。
 前記の顕如の書状の宛名が必ずしも上段に書かれていないのに比べて、このほうは差出者と受取者の間に身分の隔たりがないので、善福寺が日付とほぼ同じ位置に記されていることや、文章全体もより丁寧に書かれていることに注意してほしい。おわりにみられる長延寺と堀左近将監の二人は本願寺より派遣された使者であり、この両名がなお詳しく善福寺側へ趣旨を伝えんとしたものである。
 
文書 (3)
 本文書は教如の書状である。彼は顕如の子で、顕如が信長に追われて石山本願寺を出てからも、父に従わず、大坂に止まって信長に対抗し、のち本願寺が東西に分裂する原因をつくった人物である。かなり気概のあった人のようでもある。この文書の内容を簡単にみると、父の顕如は去る(天正八年)閏三月九日に紀伊の雑賀の鷺森へ移ったが、そのあと自分は大坂に止まって抵抗せんとしたが、結局、力が尽きて八月二日に石山を退城し、今(十月に)は紀伊の和歌浦へ雑賀衆を頼って到着した旨を告げたものである。この文書は、ただ善福寺へのみにあてられたものではなく、おわりにみられるように善福寺を通じて武蔵の真宗関係の寺院僧侶門徒に広くこの間の事情を知らせたものである。
 
文書 (4)
 教如の書状である。内容は、儀礼的なことに止まっている。善福寺よりの手紙と木綿十端(反)を贈られたことについて謝礼を述べている。
 
文書 (5)
 教如の書状である。天正八年は前述のごとく石山本願寺が石山を明け渡して紀州へ退去した年である。顕如が退いたあと、子の教如が少しく信長に抵抗したことは別の文書において述べたが、本文書はそれより半年ほど遅れるもので、時あたかも顕如が退いて教如一人が信長に抵抗していた際のものである。この教如にあてて麻布の善福寺は銀子五〇両を贈ったが、それに対する謝礼の手紙であるが、文中に教如の信長に対する憎悪と敵愾心とが、ひしひしとあらわれている文書である。
 
文書 (6)
 秀吉は、天正十八年(一五九〇)三月に京都をたって小田原へむかった。その命に従わぬ北条氏を攻めるためで、四月に小田原城は包囲された。丁度このころ、武蔵国の有力寺院にたいし、その境内の静謐と寺僧たちの安全などを保障した文書を与えている。善福寺へあてられたものがここにあげたものである。
 日付の下におされている円形の印(朱印)が秀吉の印で、秀吉の各種文書に最も多くみられる代表的な印である。俗に秀吉の糸印といわれ、印文は文字ではなく模様のようなものから成っている。