(1) 文政江戸絵図

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 別添の付録地図を見ていただきたい。読者はどのような印象をもたれるであろうか。
【分間江戸大絵図】 文政十一年(一八二八)江戸の須原屋茂兵衛蔵版『分間江戸大絵図』(一九六センチ×一六〇センチ、港区立三田図書館所蔵)を縮小複写し、江戸城外堀を境とした城南地区について凡例に従った着色をして、いわば土地利用図を作成してみたものである。
 その範囲は、ほぼ全体の三分の二ほどが現在の港区地域にあたり、さらにその外周部に及んでいる。
 後に述べるような江戸府外をも含み、畑地の広がりが目立つが、その畑地はなお市街地のなかにも深く入り込んでいる。事実としては、むしろ市街地が郊外の畑地を蚕食して進出していったわけであるけれども、印象的にはそのように見えよう。
 無着色の部分は、大名屋敷である。そのうち紋所のあるものが上屋敷、■印が中屋敷、●印が下屋敷である。なお、それぞれ名前が記入されているが、その書き出しの方向に屋敷の正門があることを示す約束になっている。個々の大名屋敷はそれぞれかなり広大な敷地である。また、茶色の部分は旗本屋敷、同じく肌色部分は御家人の組屋敷である。大名屋敷とあわせて武家地の占める空間はきわめて広大である。
 次いで赤色の部分は寺社地で、増上寺とその周辺、三田・高輪の寺町などが目立つ。そしてこれらの入り組んだ隙間のような所に灰色の町地が混在している状態となって、全体としては江戸封建社会の身分制を反映したモザイク状の複雑な土地利用となっているのである。
 そして、なおこの地図のなかに現在の港区域内の学校・公園など、とくに公共的な施設、あるいは道路の位置や形状などを重ねあわせて確認してみると、それがあまり現状と変わらないことに驚かされる。表面的な都市景観は激変しているけれども、都市としての基本的な骨格は、江戸時代にほぼでき上がっているといってもよいほどである。
 以下、港区地域の近世について、とりわけ近世都市としての江戸の地域構造の特質を探るところに焦点を合わせて検討していくこととしたい。