徳川氏の城下町であると同時に、徳川幕府の所在地であるという二重の性格をもって建設、完成された都市としての江戸は、複雑な都市構成を示している。
【江戸の町数・屋敷数・寺社数 江戸市街調査】 『御府内備考』によれば天明のころ(一七八一~一七八八)の江戸の構成は、次のようであった。すなわち、町数一、六五〇町余(町方分一、二〇〇町余、寺社門前四〇〇町余)、大名上屋敷二六五カ所、同中・下屋敷四六六カ所、神社二百余社、寺院千余カ所である。また、明治二年の江戸市街調査によると武家地一、一六九万一、〇〇〇坪、寺社地二六六万一、〇〇〇坪、町地二六九万六、〇〇〇坪という構成になっている。武家地六八・六%、寺社地一五・六%、町地一五・八%であって江戸府内の大半が武家地であったといってよい。
【江戸の都市構成】 こうした事実は、全盛期の江戸図に明瞭に窺い得るが、先にみた付録地図(城南地域)も含めて文化文政期から天保期にかけての江戸図についてそれをみてみると、中央の郭内に大名の上屋敷と旗本屋敷および主要町地、中央と外辺部との中間地帯は大名の中屋敷、旗本屋敷、町地、寺社地、外辺部は下屋敷や寺社地によって構成され、さらに百姓地も介在し、細部をみれば、なお各種各様に交錯した所が多いということができよう。
近世の城下町は、一般に領主的軍事都市として直属家臣団の屋敷町を城に付属させ、城下を通過する主要交通路線に沿って町人町をおくことを基本的形態とする。中央郭内に城をはさんで旗本屋敷と、日本橋から神田にかけての「古町三百町」を中心とする町人町が対置されているのは、まさにこの都市計画を示している。また、江戸は徳川氏の城下町のみならず、幕府の所在地でもあることから、大名屋敷、大寺院などが第二次的要素となって加わり、したがって、それらが作り出す膨大な消費人口を対象として、町人町をも発達させ、さらに、その地形も関与して都市構成が複雑になったのである。
【シーボルトの『江戸参府紀行』】 文政九年(一八二六)、オランダ商館長の江戸参府旅行に随行したシーボルトは、その紀行の一節に次のように記録している。
この国の首都であり、政治の府である江戸は、(一)本来の町(外郭)、(二)市壁外の町(外郭の外側の町)、(三)城(内郭)に分かれる。
本来の町は郭外の町と城壁や濠で分けられ、大きい門と橋でさらに結ばれている。門の外側にある町の地域すなわち外郭の外側の町を外(Soto)、門の内側を内(Utsi)といい、たとえば浅草御門外(Asakusa Gomon Soto)、筋違御門内(Susigai Gomon Utsi)などと、いつも門の名をつけている。郭外の町は中心部の町そのものよりずっと広い。そこには大名の大きな邸や寺院や倉庫などがあり、それが次第になくなっていつのまにか水田や野菜畑のある広々とした土地に変わってゆく。(斉藤信訳『ジーボルト、江戸参府紀行』東洋文庫本二一一ページ)
江戸城は谷と丘陵の多い江戸の自然的条件を巧みに利用して、内郭と外郭からなっていた。本来の城郭部分である本丸と西丸、そして北丸、吹上の四部に分かれる内郭は渦巻状に濠割がめぐらされ、城郭防備の役割を果たしていた。シーボルトのいう(三)である。
江戸の中心市街である外郭(一)は、浅草橋から始まり、渦巻状に内郭に向かって「三十六見付」を始めとして、多くの城門が開かれ雉子橋にいたり内郭門に接続する。とくに、重要な外郭の諸門は、奥州街道に通ずる浅草橋門、本郷・下谷方面に通ずる筋違橋門、上州道に通ずる牛込門、甲州街道に通ずる四谷門、東海道に通ずる虎之門の五つであり、その他、大山街道の起点である赤坂門、虎之門とならんで東海道に接続する芝口門および幸橋門、日本橋・京橋をへて江戸湾に通ずる路線の起点である呉服橋門、鍛冶橋門、数寄屋橋門なども重要であった。
【港区地域の特徴】 港区地域は、こうしてシーボルトのいう(二)の「外Soto」ということになる。そうして江戸が「いつのまにか」周辺の農村地常に連続してしまうという、日本の近世城下都市の特質を具現している地域ということにもなるわけである。