【家康の関東入国 江戸の発達過程】 江戸が都市としての発達を遂げたのは、むろん天正十八年(一五九〇)、徳川家康の関東入国以後のことであるが、河川交通や海上交通の便がある関東平野の中心地であり、築城に好適な洪積台地の辺縁にある江戸の地は近世都市の立地条件を十分に備えていた。鷹見安二郎氏の見解(『江戸の発達』)を参考として、江戸の、とくに市域の形成を中心とした都市的発達の過程を次のように区分することができる。
すなわち、①開発期(天正十八年~慶長八年)、②興隆期(~明暦三年)、③拡大・整備期(~寛政期)、④安定期(~天保期)、⑤動乱期(~幕末)である。
【開発期】 まず、第一の開発期は、貧弱な後北条氏時代以来の城の周辺にわずかな町屋の散在する程度の江戸に、家康が関八州二四〇万石の領主として入り、旧領から家臣団を移し、諸商人を招き、江戸城本丸の修築と西丸修築に備える城下寺院の移転などの土木工事を行なって市街を開発し、関東の首府としての都市の形態を作りだした時期である。
具体的な事実としては、現在の呉服橋から大手町に至る街路の北側ぞいにあった道三堀と行徳へ通じる小名木川の開通、また、井の頭上水の開通、麹町や本町の町割りなどが挙げられる。
【興隆期】 第二の興隆期は、慶長八年(一六〇三)、江戸に幕府が開かれ、徳川氏の城下というばかりでなく、日本全国の政治的中心となって飛躍的発展を開始する時期である。直属家臣ばかりでなく、多くの大名が屋敷を構えるようになり、必然的に町地も発展し、これに対応して開幕の年には、主として駿河台(神田山)を崩した土によって、豊島洲崎といわれた現在の中央区の南部一帯、浜町から新橋辺までの埋立工事が行なわれ、本町通りの町をそっくりここへ移す町割りが計画的に実施された。さらにこの年には、日本橋もできて江戸市街の幹線道路は本町通りから日本橋通りへ移った。
また、慶長十一年(一六〇六)から十二年にかけては、江戸城の修築拡張が行なわれ、元和二年(一六一六)には、家康の死去によって駿府の家臣団が江戸へ帰住することになり、そのため江戸川と小石川の水を神田川へ落として小川町、猿楽町、駿河台に彼らの宅地を形成することになった。つづいて寛永十一年(一六三四)・同十二年には大名妻子在府制と参勤交代制が確立して、武家屋敷地造成のため寺院等を周辺部へ移転させ、さらに寛永十三年には江戸城外郭の整備も終了して、ここに江戸の基本的形態が完成したのである。
【拡大・整備期】 こうして次第に発展してきた江戸は、明暦三年(一六五七)一月十八、十九の両日にわたる大火によって市街の六〇%以上が焼野原となり、十万人以上の焼死者を出した。その復興に始まるのが、第三の拡大・整備期である。その復興都市計画は次のようであった。① 曲輪内にあった大名屋敷を全部曲輪外に移転させたのをはじめとする大名・旗本屋敷の移転および下屋敷の下賜。② 八丁堀、矢の倉、馬喰町、神田辺にあった寺院の深川、浅草、駒込、目黒など周辺地への移転。③ ①および②に伴う町屋の霊岸島、築地、本所等への移転。④ 焼土を利用した木挽町、赤坂、牛込の沼地の埋立て。⑤ 神田白銀町、万町、四日市町への防火堤の設定。⑥ 日本橋・京橋間の三カ所をはじめとする火除明地としての広小路の設定。⑦ 主要街路の拡幅(六間→一〇間)。⑧ 両国橋の架設。芝・浅草両新堀の開鑿。神田川の拡張。
さらに、これらの都市計画の実施のためには従来の市街地のみでは不足となり、両国橋の架橋から本所、深川の開発が始められた。竪川・横川その他の溝渠を開き上水を通じ、石壁を築き、橋梁を架け、街区を画定し、大名・旗本の屋敷割を実施した。町屋も次第に起立したが、この地域の重要な特色は、この土地が水運などに便利なように造成されたことである。木場・干鰯場・干鰯市場・石置場などの民間の貯蔵管理施設が、幕府の御船蔵・諸藩の蔵屋敷などの公的な施設とならんで広大な地域を占めていた。本来ならば日本橋、京橋、神田地域に組み込まれるべき機能が、都市域の拡大につれて計画的にこの地域に移動させられているとみられるものである(野村兼太郎『江戸』、『東京百年史・上巻』)。
【町奉行支配地の拡大】 こうして、都市としての江戸の四方への外延的拡張が目覚ましく進展した。それにつれて、幕政一般の面からみても、享保の改革や寛政の改革が実施されていく時期でもあるが、江戸市政の面においても、諸種の政策の展開がみられる。市域の形成に関連していえば町奉行支配地拡大の方向が打ち出されていく問題である。
先にも述べたように、江戸は本来武家地、寺社地、町地、代官支配地から構成され、それぞれの支配系統もまったく異なっていた。しかしながら、人口が増大し江戸が膨張するにつれて、中心市街に通ずる周辺農村地帯の街道ぞいに町家作が並び、大名の蔵屋敷が設定された所に諸商人が集まり町屋が形成されていく。また、寺社関係地にあっても、門前のにぎわいがみられてくるようになる。
当初から町奉行の統制下にあるもの以外の、支配系統の異なる町が発生し、しかもそこが江戸町人の行政・司法を掌握していた町奉行の権限のおよばない地域となっては、犯罪捜査の便宜や町の秩序などの面できわめて不都合であった。そこで土地支配は従前どおりとしても居住民に関しては、代官や寺社奉行支配の町をも町奉行支配下に組み入れて、江戸市域を統一的に掌握するということが、次のように段階的に行なわれている。
まず、寛文二年(一六六二)には、江戸城外郭内の中央市街を貫く幹線街路に接続する芝、三田、飯倉から下谷、上野、浅草、今戸までがその重要性と、周辺部においてもっとも都市化が進展していたという点からまず町奉行支配下に編入されている。
次いで、正徳三年(一七一三)は一時に代官支配下にあった二五九の町(『吹塵録』)が戸口に関して町奉行支配になった年である。すなわち、深川、本所、小石川、牛込、市ケ谷、四谷、赤坂、麻布辺の代官支配の百姓地にできた町の支配について、年貢をはじめ土地に関することは代官、行政・警察に関することは町奉行の支配とすることとし、この結果生ずる町奉行所の事務増大に対処するため、与力三人、同心一五人を増員している。
続いて、寺社関係の町が一斉に町奉行支配となったのが延享二年(一七四五)である。
寺町といわれるところを形成した下谷、谷中、牛込、芝をはじめ、小石川、小日向、麻布、品川などの地域の門前がその対象となり、そしてさらに翌年にもこれに続き、品川、小石川をはじめとして各所の寺社門前町の居住民の行政・警察などに関しては町奉行の支配権がおよぶようになったのである。
こうして、江戸の都市域の拡大と整備が、この期に至って完成したのである。
この後、とくに化政時代といわれた江戸文化の爛熟期を迎え、『御府内備考』のような江戸の地誌の編纂(さん)が幕府によって行なわれた一応の安定期が続き、さらに、天保の改革の失敗とペリー来航に端を発した幕府の権威の失墜から繁栄を誇った江戸も幕末の動乱期を迎えるわけである。