元赤坂町の場合

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【元赤坂町】 『御府内備考』によれば、元赤坂町は奥州街道に沿った豊島郡赤坂庄下一木村内にあったが、そのうちでもっとも早くから町屋ができ、家康の入国後に町奉行支配となって元赤坂町と称するようになったところである。寛永十四年(一六三七)見付用地となり、替地として赤坂門外に位置するようになった。起原の古い「古町」としての格式をもっており、享保八年(一七二三)より四〇〇人分の人足役銀を上納している。
 この元赤坂町と同様の事例として、桜田地域の町々をあげることができる。『御府内備考』によれば、「兼房町」は家康の入国後に幸橋門外の地に町方として取りたてられたもの。また、「伏見町」・「善右衛門町」・「和泉町」・「鍛冶町」・「太左衛門町」・「備前町」・「久保町」の七カ町は古くは桜田村と称して霞ケ関辺にあったが、入国後御用地として召上げられ、虎の門外に移されたが、寛政六年に類焼のため兼房町と併せて火除地として召上げられ、地続きの武家屋敷上げ地内に、代地を与えられたものである。なお、これらの町の移転については、図3を見ていただきたい。「鍛冶町」は鋲鍛冶の国役二〇人役を古くから勤めており、寛文七年(一六六七)からは、春秋両度に銀一七六匁宛を鍛冶頭神田鍛冶町高井助左衛門方へ納めている。
 なお、このほかに新橋から金杉橋にかけての東海道ぞいに並ぶ「芝口一、二丁目」から「浜松町一、二、三、四丁目」にかけてなどが、ほぼいわゆる古町の格式をもつ起原の古い町屋とみてよいところである。