【五十人町】 五十人町は御作事方定普請同心五〇人が、家康の関東入国の折に御茶の水台ならびに湯島天神前に大縄拝領地を得たことにはじまる。小給の者であるということですぐに町家作が許されたが、天和三年(一六八三)御用地として召上げられ、青山和泉守上ゲ屋敷内に代地を得たものである。このほかに青山地域内で、同様の事例が四例ある。「御手大工町(御手大工衆二五人拝領町屋)」が天和三年(一六八二)に本所入江町続北横堀より、「六軒町(紅葉山御霊屋付御掃除の者六人)」が同じく本所南横堀より移転してきたものである。前者は寛文元年(一六六一)より、後者は寛永七年(一六三〇)より町屋があったという。また、「御炉路町(御炉路の者一四人)」は天和三年に神田御茶の水より、「浅河町(黒鍬の者九六人)」も同じく御茶の水より移転したもので、前者は慶安四年(一六五一)より町屋があったという町である。
武家関係の町は、このほかに諸所に散在しており、麻布地域では「御簞笥町」(御簞笥同心)、「宮下町」(御坊主衆・御陸尺衆)、「田島町」(白金御殿番人・芝増上寺御霊屋御掃除頭・御厩口役ほか)、「坂江町」(御留守居同心)、飯倉地域では「神谷町」(参州御手廻り御中間)、「同朋町」(御坊主衆)、芝地域では「芝口一丁目東側」(御医師岡甫庵ほか)、「二葉町」(本丸奥女中衆)、「湊町」(御坊主衆)、「金杉同朋町」(御同朋衆)、「六軒町」(奥御坊主)などがある。
なお、次にCタイプの寺社関係の町、Dタイプの町並地があり、これらは先に見たように数も多く港区地域内にかなり広く分布しているがそれぞれ後に論ぜられるはずであり、ここでは省略しておきたい。(二二八ページ以下および三〇二ページ以下参照。)