(2) 江戸市街の変動と港区地域

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 これまでにもすでにふれてきたところであるが、都市としての江戸はその市街の様相をつねに変動させてきたといってよいであろう。それは主として初期においては、徳川氏の政治的地位の向上と統治組織の整備にもとづく江戸城の規模の拡大にともなう市街の発展のためであり、その後においては、人口の増加と大火の頻発に対処するための都市計画にそうもののためであった。本項ではそうした点についてやや具体的にみてみよう。
【大名屋敷の所在と移転】 まず、江戸のもっとも広い空間を占める武家地のなかでも、とくに個々の大名屋敷について上・中・下屋敷それぞれの所在と移転について、『東京市史稿・市街篇第四九巻』所載の資料をもとに作成したのが表2(①②③)である。
 

表2の① 和歌山藩(紀州徳川家)江戸屋敷

屋敷
所 在 地

拝領・相対替
経   過

上地・相対替
坪   数















抱・添

竹橋内
赤坂喰違内
麹町5丁目

八丁堀
鉄砲洲
浜町
八丁堀

芝海手
中渋谷
本芝1丁目
小名木沢
深川万年橋
青山
千駄谷

元和4.
寛永9.7.26
明暦3.5.14

  ?
文政12.6.28
○文政13.2.12
○安政元.2.22

弘化3.7.13
延宝4.10.11
宝永5.12.28
○安政3.4.1
○安政6.3.28
天保6.12.
正徳2.譲受


添地拝領,相対替囲込
添地拝領

切坪上地





切坪相対替

切坪相対替


添地拝領
弘化元.3.14
明暦3.5.



○文政13.2.12
○安政元.2.22

○安政3.4.1



○享保10.9.7





?   
280,762
24,548
外ニ預地 139
10,249
6,320
2,000
7,284
外ニ預地 132
14,778
29,400
2,839
2,300
5,000
3,690
19,518
添  7,400
      以下家臣へ貸与の分














四谷門外堀端
権田原
権田原
牛込原町
四谷相の馬楊
鮫ヶ橋北台
四谷仲町
麹町3丁目北横町
小石川新富坂
千駄ヶ谷
巣鴨火の番町
四谷南伊賀町
深川越中島
深川
○文化8.9.12
天保4.11.8譲受
○安政3.12.8
天保9.8.26
○天保13.4.7
天保15.9.26
○弘化2.12.
○弘化4.2.11
○嘉永6.11.5
寛政2.8.
寛政2.8.
万延元.8.17
弘化4.10.18譲受
寛文?
相対替囲込





相対替







安政5.

安政5.11.29
天保13.4.7

文久元.7.1
嘉永6.11.


寛政2.12.27
寛政2.12.27

譲渡?
宝永?
2,241
2,440
387
507
800
700
?   
220
?   
483
231
1,372
9.999
?   

 

表2の② 朝日山藩(水野家)江戸屋敷

屋敷
所 在 地

拝領・相対替
経   過

上地・相対替
坪   数








































西丸下
芝切通
西丸下
芝切通
西丸下
小川町

芝切通
西丸下
虎之門
大名小路
麻布市兵衛町
三田札の辻
芝切通
西丸下
大名小路
外桜田
小石川
三山札の辻
  〃
本所
鍛冶橋内
北本所
駒込
赤坂薬研坂

北本所大川端
赤坂溜池端
芝高輪
鉄砲洲

青山長者丸
深川

駒込
中渋谷
中渋谷
本所菊川町
北新堀
青山久保町
  ?
貞享3.7.10
正徳元.12.
正徳4.9.6
享保2.9.27
享保15.7.11

明和6.8.21
文政11.11.
天保14.11.8
弘化元.6.22
弘化2.6.6
弘化2.9.2唱替
安政6.8.16
文久2.6.19
文久2.閏4.
慶応2.
  ?
○元禄13.7.
万延元.7及9月
  ?
寛文10.正.29
元禄9.8.
○元禄13.7.
?享保初年

○天明6.12.16
○文化元.2.18
○文政2.正.26
○天保11.6.19

○弘化4.12.29
  ?

寛政10.10.27
天保8.9.朔
嘉永元.8.5
  ?
  ?
寛政8.(譲受)
承応以降各地図

監物忠之若年寄役屋敷
元屋敷
和泉守忠之老中役屋敷


割替,元屋敷
越前守忠邦老中役屋敷

越前守老中再任役屋敷

元中屋敷
元屋敷
和泉守忠精老中役屋敷


寛文以降各地図
相対替囲込 添地囲込





切坪相対替
天明6.12.16


切坪相対替
相対替囲込
切坪相対替

寛文以降各地図
元禄以降文化迄諸武鑑

相対替囲込

大成武鑑,慶応武鑑
慶応武鑑
囲込
貞享3.7.10
正徳元.12.
正徳4.9.6
享保2.9.27
享保15.7.11
明和6.8.21

文政11.11.
天保14.11.8
弘化元.6.22
弘化2.6.6
弘化2.9.2
安政6.8.16
文久2.6.19
慶応2.
慶応2.

○元禄13.7.
弘化2.9.2唱替

寛文10.正.29
○元禄9.8.3
  ?
譲与?
○残地
文化元.2.18
○寛政10.10.17
○文政2.正.26
弘化4.10.
○嘉永元.8.5


  ?

享和3.12.
  ?
  ?



?   
8,062
?   
8,062
8,384
7,834
外ニ預地 120
8,815
4,886
3,325
?   
3,400
10,309
5,814
4,816
1,000
4,382
?   
10,309
8,522
1,541
?   
2,500
?   
残地  2,900

900
1,599
3,000
残地   702

994
?   

1,000
20,000
1,000
?   
?   
?   

 

表2の③ 鹿児島藩(島津家)江戸屋敷

屋敷
所 在 地

拝領・相対替
経   過

上地・相対替
坪   数



下・抱
下・抱






外桜田幸橋内
芝新馬場

高輪
大井村
渋谷
大崎村
白金村今里
白金村今里
芝田町海手
芝新堀端
慶長15.9.
  ?

寛文9.11.26
?万治3天保3
○嘉永5.
宝暦13.正.9譲受
文化11.譲受
文政4.譲受
?譲受
○安永2.6.29

添地拝領
享保14.7.宝暦12.4.
切坪相対替

相対替囲込


囲込
埋立 安永5.







○文政2.
天保7.譲渡



6,858
21,785

?   
?   
18,000
25,794
16,733
?   
?   
2,909

 
 それぞれの藩邸について上・中・下・抱屋敷等の類別をして、その所在地と拝領および上地の年時、そして面積を示している。また、賜邸については必ずしも新たな拝領だけでなく、何らかの理由で大名相互に藩邸を移動することも多く相対替として○印を付してそれを示している。また、屋敷の隣接地を囲い込んだり、新たに添地として拝領したりすることもあり経過として注記してある。網羅的に見る余裕がないので港区地域内に屋敷を持ったことのある三藩の例にとどまるが、およその傾向をみることができる。
 たとえば、和歌山藩の場合、上屋敷は当初竹橋内にあった。明暦三年(一六五七)には、それが収公されて赤坂喰違内の屋敷が上屋敷となり幕末に至る。中屋敷については、明暦三年以後麹町五丁目、下屋敷については、延宝四年(一六七六)以後中渋谷に拝領してそれぞれ幕末に至るが、それ以外にもとくに幕末の時点で多くの下屋敷を得て、そのうちのかなりの屋敷地を家臣に貸与していることが特徴的である。
 同じく大藩であっても鹿児島藩の場合は、あまり目立って移動がないといってよいだろう。
 天保の改革の越前守忠邦を出した水野家の場合、譜代の大名として若年寄や老中就任時の役屋敷として上屋敷の移動が何回もあり、たとえば、芝切通の屋敷が年を経て断続的に上屋敷となっていることが興味深い。
 全体に大名屋敷の移動はかなり頻繁にあったこと、また、江戸後半期に下屋敷ないし抱屋敷を港区地域を含む周辺郊外地に得ていた傾向などをみることができよう。
【寺社地の移転】 寺社地においても、その起原・創建とともに寛永年間ころまでにかなり目まぐるしい移転がある。元来が場末に配置されることが原則であった寺社は、また一方では、門前町屋を形成するようになって、その膨張が中心部から拡大してくる市街と結びついてやがて場末の市街地化をもたらし、再び移転をするということも繰り返されるのであった(三〇八ページ参照)。
 
【町の移転】 さて江戸の都市計画が、まず大名の居宅を初めとする武家地の整備、続いて寺社地の整備や防火用の火除地として、空間地を設定することなどにおいて行なわれた結果は、当然町地にもおよび、しばしば御用地として町はその一部あるいは全体を収公され、それに見合う代地を周辺に与えられて強制移転を命ぜられたのである。その代地も数カ所に分散することもあったし、代地がなく立退料のみが支給される場合もあった。
【西久保新下谷町】 たとえば、飯倉地域の「西久保新下谷町」の場合について『御府内備考』によれば、そもそもは城北の下谷村にあって元和五年(一六一九)に町屋設立が許可された代官支配地であった。寛永元年(一六二四)に東叡山寛永寺の建立にともない、千住通りに替地を命ぜられ、下谷町三町に分立した。つづいて正保元年(一六四四)に東叡山の門前町屋となって山内の御用人足を勤め寺社奉行支配となり、引き続き代官支配地でもあり年貢を上納していた。元禄十一年(一六九八)九月山下町より出火、下谷・浅草・山谷一帯が類焼するということがあり、この時から山内の寺院が下谷通りへ移転することとなって、下谷町一丁目内十一カ所を残してすべて移転の命があった。そこで下谷稲荷神役祭礼勤めのために場末には移さぬようとの願いが出され、結局、一丁目西側が西久保へ、一丁目東側・二、三丁目・三丁目横町は神田元誓願寺前に代地が与えられ、当地の氏子にはならず従来どおり神役を勤めるよう指示があった。元禄十二年十月に西久保の代地は西久保新下谷町と改称した。正徳二年(一七一二)から年貢免除となり、寺社奉行一手支配となった。延享二年(一七四五)からは町奉行支配となっている。なお、「車坂町」の場合も、東叡山門前町としてその一部が下谷町とほぼ同様の経緯で、同じ飯倉地域へ移転してきている。
【町の移転の傾向】 いずれにせよ、こうした町地の移動は必ずしもすべてが強制によるものではないが、だいたい周辺の空閑地を目ざして行なわれるものであり、その経緯を追うことは江戸市街の拡大変遷の過程を知ることとなるわけで、この観点から『御府内備考』所載の各町の沿革記事を整理して得た資料をまとめたものが先の表1C欄の数値である。すなわち、各地域においてどれほどの割合で移転により成立した町があるかを示したものである。この点は、図2にも表示してある。全体でも三一%を占める多くの町が同地域内あるいは他地域から移転したことのある事実を示し、江戸の町の変動が目まぐるしかったことを端的にあらわしている。
 また、図4は、江戸全域における各年度ごとの移転による町の成立頻度をあらわしたものである。
 これらの図表の検討によって次のような点を整理することができるであろう。まず、移転の頻度が享保以前に集中していることと、移転頻度の年度別傾向から全体を三期に区分できることである。すなわち、天正期から寛文期までを第一期、そのなかで前半を第一―一期として慶安期まで、後半を第一―二期として承応期から寛文期までとすることができる。第二期は延宝期から享保期までで、なお、第二―一期(延宝~貞享期)、第二―二期(元禄―宝永期)、第二―三期(正徳~享保期)に小区分することができる。そして元文期から文政期までが第三期である。
 また、この各期ごとに江戸全域の町の移転件数をみてみると、第一―一期では総数八三件、したがって年平均一・三件、第一―二期では総数七一件、年平均三・三件、第二―一期では総数一八件、年平均一・二件、第二―二期では総数九六件、年平均四・二件、第二―三期では総数二三件、年平均〇・九件、第三期では総数四七件、年平均〇・五件であって、第一―二期と第二―二期において町の移転頻度が高かったことを知ることができる。前者は、明暦の大火後に行なわれた大規模な江戸市街の整備の結果のあらわれであり、後者は、明暦の大火後にとくにその経営に力が入れられた本所・深川地区がしばしば出水に見舞われたために、都市計画を変更し、天和三年(一六八三)に全域を収公して旧態に戻したのが元禄年間に再度元通りの町割りが行なわれたための結果のあらわれである。
 さて、次に『御府内備考』では、各町の移転してきた元地についての明確な記録を欠くものが多いが、その移転経路を判断しうる限りの範囲内でほぼ地図上に表示してみると、天正十八年から文政末年までの町の移転事例の経路をみることになるが、矢印の線はかなり錯綜し町の移転の頻繁な状態を知りうる。しかし、原則的には矢印は放射状に外側へ向かっており、中心市街の周辺地域への膨張過程を追うことができる。また、本所から巢鴨へ、深川から牛込へ、谷中から青山へとかなり遠隔地へ移転した例もあるが、殆ど近接地へ移転しているのは便宜から考えて当然のことと思われる。また、浅草、本所、深川への移転の事例が非常に多数であることも注目してよいであろう(図3は先の区分による第一期についてのみ図示している)。
 このようにして町の移転の事例からみて、江戸市街が頻繁な錯綜をきわめた移転の過程を経て、享保年間(一七一六~二五)ころには拡大の限度に達していたということが明らかにされる。そうして、これらを受けて延享期(一七四四~四七)には先にみたように寺社関係地を中心に多くの町方が町奉行支配の下に組み入れられて、都市としての江戸の制度的な整備がなされていくわけである。