(3) 町名主

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【町名主の職務】 江戸の自治の単位としての各町の責任者として、一人で二~三町、多い者は二〇数カ町の町を支配していた。名主の給料は、支配町々から支給されていたが、町内に家屋敷の売買・譲渡、養子、祝言、元服などがあると祝儀を贈られる慣習があり、これらの雑収入が多かった。町名主の職務は(『東京百年史・第一巻』)① 町年寄から奉行所の御触れ・申渡しを受けて町内に伝達し徹底させる。② 火の元の取締り。③ 町奉行所への町内からの願書、訴訟の奥印を与える。④ 町内の訴訟事件の調停和解のあっせん。⑤ 家屋敷の売買譲渡その他諸証文の案紙を検閲すること。⑥ 人別改。⑦ 税務の処理など多岐にわたり町内いっさいの責任を負うものであった。【草創名主と古町名主】徳川氏入国以前からの江戸居住者ないし初期の開発名主の系統を草創名主それについで寛永期ごろまでに成立した町名主の系統を古町名主といって家格を誇り重要視されていた。【名主の番組】享保七年(一七二二)、府内二六三名の名主を地域ごとに一七組、番外一組(寛延年中には二一組になる)に分けて組合をつくり、相互の監視体制と、町触れの伝達などの便宜を図った。港区地域関係では、次のような編成がなされていた(野村兼太郎『江戸』)。
 
  八番組
 
芝口二丁目、同三丁目、源助町、露月町、柴井町、宇田川町、神明町、新網町、中門前町、桜田兼房町、同備前町、同鍛冶町、同伏見町、同久保町、天徳寺門前町、葺手町、富山町、計一七名
  九番組
 
金杉町、本芝町、西応寺町、新馬場町、松本町、森本町、飯倉町、麻布永坂町、同宮下町、麻布町、三田同朋町、同所三田町(二名)、芝田町、車町、計一五名、
  十番組
 
市兵衛町、谷町、今井町、白銀台町、永峰町、品川台町、猿町、高輪町(二名)、広尾町(二名)、宮益町、道玄坂町、竜土町、桜田町、白銀台町、元赤坂町、赤坂伝馬町(二名)、同一ッ木町、計二〇名
  十九番組麻布善福寺門前町、二本榎(二名)、麻布□□寺門前、計四名

その後、寛政二年(一七九〇)には各組に肝煎名主二、三名を置き組内名主を監視させた。天保二年(一八三一)には、この制度を廃し、組合世話掛二二名を置き、安政五年(一八五八)には四五名となった。幕末になると市政も多事となり各名主に事務を分担させるようになった。すなわち、物価の調査等をする四八名、諸色取締り五〇名、そのほか、酒入津掛、絵草紙並びに書物掛、桶樽役銭掛、町会所、年番各若干名がおかれた。