(4) 町人

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地主・家持・家守 【地主・家持 持家】 町人のうち自己の住宅とその宅地を所有する地主・家持(いえもち)が町内自治に参加する権利をもち町費を分担して一人前の町人とみなされていた。その町に居住する居付地主のほかに、他町地主はその代理者として家守(やもり)(家主(いえぬし)・大屋(おおや))をおいていた。居付地主であっても、公用や町用がわずらわしければ家守をおいた。家守は、自身は家の持ち主ではないが、地主が負うべき公的責任を代行し、「大屋は親、店子は子」という擬制的な親子関係が強調されるように、多くの店子を管理してある意味では、江戸の自治的町政の核となっていた。
【五人組】 この家守が五人組を組んで責任を連帯し、月交替に月行事となり、町内訴訟や願届の加判、検視見分の立会い、罪囚の保留、町内道路の修繕、火の番、夜警等々多岐にわたる事務を処理していた。【自身番】各町には、自身番屋があって、家守はこれを警備の詰所とするとともに、町内の事務所ともしていた。
 
地借・店借 【地借・店借・店子】 他人の土地を借りて自己の居宅、土蔵等をもつものを地借(じがり)、土地・居宅を借用して居住するものを店借(たながり)といった。地借・店借はともに店子(たなこ)といわれ、公的には一人前の町人としての資格をもたず、町費も負担しなかった。
【青山御手大工町「町記」】 ところで、青山御手大工町において寛政の町法改正以後の町規によって町務を記録していたが、一旦火災で焼失した古記録を文化十一年(一八一四)二月に新たに収録し、以来書きついで明治初年に至る「町記」なる史料があった。『赤坂区史』に、その記事が原形のままではないが収録されているので、それによりながら町内自治の一端をみてみよう。
【青山六カ町町入用】 当時、青山方面には九カ町あって、このうちの数カ町が組合をつくり、諸経費(町入用)を分担し、町政を運営していた。名主七左衛門支配の御手大工町、若松町、五十人町、御炉路町、六軒町の五町に、名主半左衛門支配の久保町あるいは名主惣左衛門支配の浅河町を加えて六カ町といっていたようである。町入用の費目を体系的に知ることはできないが、散見する諸項目の概要は、次のとおりである。
 
 ①六カ町頭取関係 頭取の具体的な職掌は不明であるけれども、六カ町の諸事を世話していた者と思われる。その役場道具その他の諸入用として、たとえば、文化十二年(一八一四)十一月に浅河町次郎兵衛に金一両二分が支払われている。そして、これは六カ町地主八〇人に対して一人銀一匁一分二厘五毛宛が割り当てられている。御手大工町では一七人分銀一九匁一分二厘五毛であった。頭取給金は毎月二貫六百匁であり、御手大工町町主一七人分の負担は文化十二年十一月より毎月三三九匁の出銭があったようである。
 ②消防関係 文政二年(一八一九)十二月に、竜吐水新調の費用として金四両一分の出費が六カ町の割合いであった。この人足賃銭は、一カ年に一二貫文に定められている。文化十四年(一八一七)十月には梯子その他修復として金三両一分と銀一三匁七分が、やはり六カ町八〇人割、一人につき銀二匁六分九毛九糸、御手大工町分として銀四四匁三分四厘七毛九糸の負担で出金されている。また、江戸市中の町火消定員のうち町々に割付けられた町常雇いの抱人足があったが、その関係の経費として文化中に半纒・股引代などの記録がある。御手大工町負担分は半纒毎年渡三人半分として五貫二五〇文、股引一カ年置き渡三人半分として四貫二〇〇文となっている。
 ③祭礼その他 熊野宮関係で、祭礼幟立ての経費が文化初年ごろに人足二人(祝儀一人二〇〇文)、神酒、肴代が計上されている。また、文化初年ごろの初穂料として青銅五〇疋が奉納されている。大提灯、祭礼具猿田彦一式修復、幟棹置場、轡堂修復として文化十一年(一八一四)に金二両の出金がある。文政七年(一八二四)三月には熊野宮再建のため六カ町で一五〇両の負担が決められている。このほかに諸社寺の開帳経費が六カ町で負担されている。金三八幡宮開帳(文化十一年四月、金五百疋奉納)、大阪和光寺如来開帳(文化十四年二月、金千疋)、梅窓院観音開扉奉納金(文化十四年三月、金五百疋)、玉窓寺観音開帳(文化十四年三月、金五百疋)などである。
 ④自身番修復費 文政二年(一八一九)九月に、町内積金より二両の出費がある。
 ⑤工事費 表通道造り、裏三カ所橋普請、辻御定杭建て替えなどの出金があったようである。
 ⑥名主関係 名主家の婚礼(文政二年四月、金百疋)、出生(文政四年十一月、金二百疋)、死去(文政五年十二月、金三百疋)などの祝儀・不祝儀代があった。
 ⑦勧進能見物札 勧進能興行があった場合、見物の畳札、入込札を各町の小間割で出金した。寛延三年(一七五〇)、文化十一年(一八一四)六月、天保三年(一八三二)正月、弘化五年(一八四八)二月の事例がある。