【江戸藩邸の職制】 江戸の藩邸には、大名の妻子のほかに幕府や諸大名との応接にあたる家臣が常住していた。一般に留守居あるいは江戸家老といわれる責任者を頂点として国元の藩の機構を小型にした職制があった。そして、参勤中になると国元から江戸勤番の家臣が交代で従ってきていた。
【江戸藩邸の規模】 西川幸治の研究(『日本都市史研究』)によれば、彦根藩井伊家の江戸藩邸の規模と勤仕する家臣団の構成は、表5のようになっている。屋敷の規模については、享保八年(一七二三)から宝暦五年(一七五二)の間のものと推定される史料、家臣団については、元禄八年(一六九五)の史料によっている。江戸邸勤仕の家臣は、桜田の上屋敷にもっとも多く勤務しており、勤番の士卒(単身で江戸に出て江戸邸内に居住する藩士)はほとんど上屋敷に居住し、定府の士卒(妻子とともに江戸邸につねに詰めている藩士)は、多くは赤坂の中屋敷、千駄ケ谷別邸、八丁堀蔵屋敷に居住して、ここから上屋敷に勤務したであろうことが推定される。このようにして、武家による広大な土地の占有と多くの武家人口の存在によって都市としての江戸の骨格が形成されていたのである。
表5 彦根藩江戸屋敷の規模と家臣団の構成
総 坪 数 | 惣 廻 り | 江戸詰侍中 | 定江戸侍中 | |
桜田上屋敷 赤坂中屋敷 千駄ヶ谷別邸 八丁域蔵屋敷 | 19,685 14,175 174,795 7,277 | 間 尺 寸 529 2 5 551 5 1,730 5 9 | 組 人 77 ―1,654 13 ― 101 1 ― 9 | 組 人 45 ― 386 45 ― 642 33 ― 163 50 ― 267 |
計 | 1,764 | 1,458 |
(注) 西川幸治『日本都市史研究』による。