(2) 参勤交代制と江戸の藩邸

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【藩邸の配置 大名屋敷の種類】 江戸の武家地として大名屋敷の占める空間は、きわめて広大なものであった。当初は幕府も適宜に諸大名へ屋敷地を賜与していたが、次第に隔年に江戸への参勤在府を義務づける参勤交代制が確立し、江戸藩邸の設置が一般化すると、計画的な配置が行なわれるようになっていた。西丸下は老中、若年寄などの屋敷、神田橋門内から道三堀のあたり竜ノ口にかけては大老、老中などの屋敷や評定所、伝奏屋敷などのいわば官庁街、そして丸ノ内、霞ケ関、永田町一帯は諸大名の屋敷地帯になっていた。そして、明暦の大火を契機として都市計画がたて直され、城内にあった御三家をはじめとする重臣たちの屋敷を城外に移すとともに、屋敷を上・中・下にわけて、上屋敷は原則として西丸下、丸ノ内、外桜田、愛宕下に集中させ、登城の便宜を考慮し、中屋敷は江戸城外郭の内縁に沿う範囲に配置し、下屋敷は郊外に与えた。上屋敷は大名と妻子の居屋敷であり、中屋敷は隠居あるいは世子の邸宅、下屋敷は別荘あるいは緊急時の避難所として機能していた。このほかに海上輸送の便利な位置に、物資の搬入、貯蔵、運送のための蔵屋敷が設けられることがあった。また、これらの幕府からの拝領屋敷のほかに、百姓地を買収した抱屋敷がある場合もあった。
【江戸藩邸の職制】 江戸の藩邸には、大名の妻子のほかに幕府や諸大名との応接にあたる家臣が常住していた。一般に留守居あるいは江戸家老といわれる責任者を頂点として国元の藩の機構を小型にした職制があった。そして、参勤中になると国元から江戸勤番の家臣が交代で従ってきていた。
【江戸藩邸の規模】 西川幸治の研究(『日本都市史研究』)によれば、彦根藩井伊家の江戸藩邸の規模と勤仕する家臣団の構成は、表5のようになっている。屋敷の規模については、享保八年(一七二三)から宝暦五年(一七五二)の間のものと推定される史料、家臣団については、元禄八年(一六九五)の史料によっている。江戸邸勤仕の家臣は、桜田の上屋敷にもっとも多く勤務しており、勤番の士卒(単身で江戸に出て江戸邸内に居住する藩士)はほとんど上屋敷に居住し、定府の士卒(妻子とともに江戸邸につねに詰めている藩士)は、多くは赤坂の中屋敷、千駄ケ谷別邸、八丁堀蔵屋敷に居住して、ここから上屋敷に勤務したであろうことが推定される。このようにして、武家による広大な土地の占有と多くの武家人口の存在によって都市としての江戸の骨格が形成されていたのである。
 

表5 彦根藩江戸屋敷の規模と家臣団の構成

総 坪 数惣 廻 り江戸詰侍中定江戸侍中
 
桜田上屋敷
赤坂中屋敷
千駄ヶ谷別邸
八丁域蔵屋敷
 
19,685
14,175
174,795
7,277
  間 尺 寸
 529 2 5
 551 5  
1,730 5 9

 組  人
77 ―1,654
13 ― 101

 1 ―  9
 組  人
45 ― 386
45 ― 642
33 ― 163
50 ― 267
1,7641,458

(注) 西川幸治『日本都市史研究』による。