【文政随筆 五〇〇石高旗本の家計】 旗本・御家人の家計の実態については多くの研究があるが、ここでは野村兼太郎博士の『徳川封建社会の研究』によって一、二の事例をみてみよう。まず、橋本敬簡の『文政随筆』(文政八年)によって各層の武士の生計予算の見積りの事例が示されているが、そこから実収五〇〇俵取り、すなわち、四公六民とみて、五〇〇石高にほぼ等しい武士の家計見積りを取りあげてみると一つのモデルとして、次のように提示されている。
入米 九拾俵
下給金 金三拾九両
内訳 用人一人 七両三人扶持。中小姓両人 七両二分。女四人 九両。手廻り五人 拾三両。門番弐両壱分。衣服代 金八両二分。盆入用 金五両。歳暮入用 金八両。手元金 金四両弐分。五節句祝日入用 金弐両弐分。月並入用 金三拾三両。(壱ケ月弐三分。内訳。主人小遣 金壱分弐朱。妻女小供小遣 金壱分。薪 金壱分弐朱。炭 金壱分。神仏 金壱朱。客入用音信 金三朱。油 金三朱。ろふそく 金弐朱。日日菜代 金壱分弐朱。みそ 金三朱。醤油 金弐朱。弁当・茶・塩・鰹節・湯がえ等 金弐朱。下下香物代金 弐朱。)、破損 金三両壱分。馬飼料 金拾弐両。吉凶積立金 金壱両壱分。非常積金 金五両。〆金百弐拾壱両三分
すなわち、五〇〇俵のうち九〇俵は一家の入用米として除き、残り四一〇俵を売却して、代金一二三両を得、そのうちから札差両一両一分を支払い、一二一両三分を純所得と計算して、その内訳を示したものである。まず、用人以下を抱える人件費が全体の三二%を占め、もっとも高い割合となっているが、その人員は先にみた軍役にそうものとはなっていない。次に日常のこまごまとした経費としての月並入用が二七%、次いで馬飼料も高額でほぼ一〇%に近い。また、宗教費および交際費として一括しうるものも一〇%を超える。寺院へのつけ届け、また、宗教的儀式の諸費用、そして盆暮・五節句等の諸入費・吉凶の贈答、さらには、賄路のごときも立身出世をしようと思う者にとっては不可欠のものであった。なお、盆暮・五節句等の入費については、その項目の注意書に、「かかる治世に住は太平を祝ふ事にしあれば、程々に祝ひ楽しみ、当日の礼を受るは、上を敬ひ下を恵む一事にして奢るにあらず、公禄を忝ふする儀にして、家内下々迄も和楽すべき也」と記されるような側面もあって、全体として質素倹約を強いられた旗本の経済生活のうちにあって、収入にたいして比較的高く割当てられた項目のようである。
これらの諸経費とその割合によって、旗本の経済生活の一端を窺いうるわけであるが、実はこれも机上の計算を示すものにすぎず、現実の生計はここに掲げられた金額によって立てられるものではなかった。
【旗本・仙石家の家計】 旗本の窮乏財政とその解決のための借金政策についても多くの事例をみることができるが、なお、野村博士の研究によって旗本仙石家の場合をみてみよう。仙石家は、但馬出石の城主五万八千石の仙石家の分家として、石高二千石、上総および近江に知行所を与えられ、他方足高(たしだか)として蔵米も受け取っていた。江戸屋敷は江戸見坂にあり、付録地図にもその名を見ることができる。旗本御家人が借財の手段として利用した金融機関は札差しであり、このことによって、札差しが富をなしたことはよく知られるところであるが、仙石家も同様であった。
文政元年(一八一八)十一月には、「旦那(仙石丹波守)無レ拠要用に付」という名目で、札差板倉屋太郎兵衛より蔵米代金一一二両を前借している証文がある。金壱両につき一カ月銀六分宛の利息(年利一割二歩の計算になる。)で、万一足高の蔵米を請け取れなかったら知行所からの年貢をあてるという条件付きであった。天保八年(一八三七)十二月十五日には、同月二十八日までに返済するという条件で金六〇両を河内屋善右衛門から借用し、同月に柏屋松五郎から二〇日間限りの条件で二五両を借用している。さらに翌天保九年四月には増上寺より次のような借財をしている。
借用申金子之事
一金百両者 但通用文字金也
右者其
御山御役所御手当金之内ニ御座候処、今般仙石能登守
公務要用ニ付、預リ申処実正御座候、然上者来ル九月廿日限金百両ニ壱ケ月七拾五匁宛利分相加、無二相違一返済可レ仕候、勿論御大切御手当之儀、能登守得与承知之上預リ被レ申候儀候得者、譬世間一統如何様異変御座候共、此於御金者毛頭無二相違一、急度返納可レ申候、若連印之内役替等仕候ハバ、早速御届申上、後役之者此証文ニ調印可レ仕候、為二後証一一札仍如レ件
仙石能登守内
用人 長谷川 唯助
天保九戌年四月 用人 内田此右衛門
増上寺御役所 家老 太田東左衛門
これがいわゆる名目金であるかは詳かではないが、増上寺が一山の困難を訴えて貸付金および富興行の許可を出願し、文政七年(一八二四)十一月にその許可を得ており、そして、雑賀屋忠七、上総屋銀次郎、播磨屋作兵衛、播磨屋九郎助等が金主となって貸付所を経営していたことがあって、名目金は禁止されず、また廃止されたわけではないので、おそらくその一つと考えられるものからの借用金一〇〇両である。このほかに天保十二年(一八四一)十二月、自領の百姓から七両の年貢先納を命じたものがある。また、同じく自領の村を引請人として、万延元年(一八六〇)十月に増上寺の僧侶から二五両の借金、また、文久元年(一八六一)十一月には、水戸家の芝貸付所より五〇両の借金証文が残されている。こうして平賀源内が「放屁論」のなかでいうところの「工農商の三民に養はれたる素餐(くらいつぶし)」という状態に近いわけであるが、これは多かれ少なかれ、すべての旗本・御家人たちに共通のことであったのである。
【御家人の内職】 そこで、内職に専念する御家人も常態としてあらわれたわけである。経済的な困窮がその主因であるが、また、その勤務が「三日勤め」といって三日に一日の非番があり、時間的余裕のあったことも一因であった。宝暦年間(一七五一~六三)には、麻布の組屋敷で草花の栽培が行なわれ、ついで代々木・千駄谷では鈴虫などの昆虫が飼育され、さらに、下谷の朝顔・金魚、大久保の植木が有名となった。御家人といえどもかなり広い屋敷地を拝領していたので、その空地が利用されたわけである。また、手内職ともいうべき屋内作業は、寛政年間(一七八九~一八〇〇)には、青山の傘・提灯、巣鴨の羽根、山の手一帯の凧張り、小鳥の飼育・竹細工などが盛んになり、ついには、これらの土地を産地とするまでに発展したのである(高柳金芳『江戸時代御家人の生活』による)。
こうして番方・役方それぞれの職務につき江戸幕府の基盤を支えた旗本・御家人の相当数が、財政難に喘ぎながらも多くの需要をつくり出しつつ港区地域に存在したわけである。