江戸の人口

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 草創期および形成期の江戸人口についてはほとんど明らかではないが、徳川家康の入国当時(天正十八年)の江戸城下は、茅ぶきの町屋が一〇〇軒あるかないかの寂しいところだったという(『聞見集』)。しかし、家康入国後、短期間に近世城下町として整備されて、慶長十四年(一六〇九)に日本に漂着したイスパニア人、ドン・ロドリゴの『日本見聞録』は、当時の江戸人口は一五万人程度あったことを伝えている。これは当時の仙台と同規模で、京都(三〇~八〇万人)、大坂(二〇万人)にはまだ及ばなかった。
 第一節でみたように、幕府地となってからは、江戸の都市建設は急速に進み、十七世紀末葉には世界的な大都市へと成長していった。江戸の市域、町数の拡大とともに人口も増加した。元禄六年(一六九三)の江戸町人人口は、三五万三、五八八人にも達していたという(『正宝事録』)。これだけの人口規模は、江戸内部の自然増加だけによって得られたのではなく、各地からの移住や奉公・出稼ぎによる流入人口に支えられたものであった。
 江戸時代中期以降の町人人口は、享保六年(一七二一)から行なわれるようになった調査によって知ることができる。表15には、享保六年から弘化元年(一八四四)までの町方人口と寺社門前人口が示されている。江戸の町人人口は、享保以後、五〇万人台にあって大きな変動はなかったことがわかる。嘉永以後は、町人人口の合計のみ知られるが、やはり五五~五七万人前後であった。ただし、慶応三年(一八六七)には五三万人台に若干減少した。
 

表15 江戸町方・寺社門前の町人人口

調 査 年 月町 方 人 口寺社門前人口
総数総数
享保6年11月1721501,394323,285178,109
享保7年4月1722483,355312,884170,471
享保8年4月1723459,842290,279169,563
享保9年4月1724464,577299,072165,505
享保10年4月1725462,102301,125160,977
享保19年4月1734473,114301,851171,26360,64936,26124,388
元文元年4月1736466,867298,012168,85560,18035,98624,194
元文3年9月1738468,446297,223171,22358,36734,79623,571
寛保3年4月1743448,453285,270163,18352,71331,10321,610
延享4年9月1747453,592287,505166,08759,73535,24724,488
天保3年5月1832474,674260,149214,52570,94937,38733,562
天保14年7月1843479,103253,820225,28374,15438,53235,622
弘化元年4月1844491,905255,793236,11267,59235,06832,524

(注) 幸田成友「江戸の町人の人口」『幸田成友著作集』第2巻による。


 
 以上は、町人人口の推移であるが、それ以外の武家人口(諸藩の江戸在住者、旗本・御家人、家族、使用人)、僧侶・神官その他については調査から除外されている。これらの人口は、町人人口に匹敵するものと考えられるから、最盛期の江戸の全人口は少ない見積りでも一一〇万人(関山直太郎『近世日本の人口構造』)、多い推定では一四〇万人ほど(内藤昌『江戸と江戸城』)もあったとされている。
【町人の人口構造の特色】 江戸町人の人口構造には、いくつかの特徴がみられる。そのひとつは、男女人口のアンバランスであり、また、他所出生者が多いことである。女子人口一〇〇にたいする男子人口で表わした性比は、享保六年(一七二一)には一八一・五、延享四年(一七四七)には一六九・四で、十八世紀においては、男が女よりも七~八割も多かった。この傾向は天保期以降には改善されて、性比は低下したが、つねに江戸では男子超過が著しかったのである。とくに、中期以前の江戸で、男子労働力にたいする労働需要が大きく、奉公人や出稼人として江戸へやってくる男子流入人口が多かったことが主な原因であろう。
 次に、江戸以外の他所出生者が多かったことも、江戸社会の特徴であった。都市とは呼べないような小集落が一世紀後に一〇〇万人に達する大都市に成長するためには、全国各地から多くの人々が移住してくる必要があった。また、江戸の大きな労働力需要を満たすためには、江戸周辺の農村が一時的、季節的な奉公人、出稼人の重要な供給源となっていたのである。このような事情が、江戸の人口に占める他所出生者の比率を高めることになったのである。
【江戸への出稼人】 幕府の江戸町人人口の調査に、出生地の区別が加えられるようになったのは、天保三年(一八三二)、出稼人人数が調べられるようになったのは、天保十四年(一八四三)以降である。いずれも江戸への人口流入を抑えて、農村の荒廃を救おうとする政策の一環であったと考えられる。その成果の現われか、天保期以降、他所出生者の比率は、二一・七%(慶応三年九月)から二九・八%(天保十四年七月)のあいだで推移するようになって、必ずしも高い比率ではなくなっているようである。一方、幕末の江戸出稼人は、年間をとおして江戸に在住する者約三万人、冬期には増えて五万人にのぼり町人人口の約一割に達していた。