出生地

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【出生地】 天保期以降、江戸町人人口の二〇%以上が他所出生者だった。表24でみられるように、宮益町・道玄坂町・東福寺門前各町の他所出生者は、それぞれ二八・八%、二七・九%、二六・三%で三割以下であるが、神谷町では天保十五年(一八四四)には四三・七%、嘉永二年(一八四九)には四一・六%と、他町と比べてかなり高率を示している。とくに、男子では五一・二%が他所出生者であったが、これらの比率には、諸国からやってきた夫婦の間に、江戸で生まれた子どもも含まれているので、家族単位にみるともっと高い割合になるであろう。
 

表24 出生地

町名 ・ 年代当地出生他所出生不 明合計
合計合計

神谷町

天保15年
弘化3年
嘉永2年
20
32
21
20
24
19
40
56
40
21
13
20
10
6
10
31
19
32
0
0
1
0
0
4
71
75
77
宮益町慶応3年2462394851049219600681
道玄坂町 同555110621204100147
東福寺門前 同3634701015250095

(注) 資料は表22に同じ。


 
 明治初年の赤坂表伝馬町一丁目の世帯主の他所出生率は四四・四%(一一七人中五二人)、同裏伝馬町一丁目では五六・五%(一八六人中一〇五人)、元赤坂町では四四・四%(一三三人中五九人)というように、断片的な資料からではあるが、港区地域では他所出生者が多かったのではないかと思われる。
【都市底辺を形づくる他所出生者】 戸主の出生地と階層との関連を宮益町でみると、家持層において他所出生率は二一・一%(三八人中八人)であるのにたいし、店借層では四一・三%(一二六人中五二人)と、他所出生者の八一・三%は店借によって占められていた。
 表25によって夫婦の出生地をみても、夫婦とも他所出生のケースは店借層に多い。このことは、流入民として江戸に来住するものは、まず店借となり都市底辺を形成することが多かったことを意味している。
 

表25 夫婦の出生地

夫 婦 の 出 生 別神 谷 町宮  益  町
天保
15年
弘化
3年
嘉永
2年
家持家守地借店借合計
Ⅰ 夫婦とも当地出生
Ⅱ 夫は当地,妻は他所出生
Ⅲ 夫に他所,妻は当地出生
Ⅳ 夫婦とも他所出生
4
2
5
6
5
1
6
4
1
0
8
6
12
4
3
3
1


1
1


2
44
3
12
29
58
7
15
35
小   計171615222388115

(注) 資料は表22に同じ。


 
 また、神谷町において夫婦とも他所出生であるケースが三五・三%(六件)、宮益町では三〇・四%(三五件)あり、しかも宮益町においては、同一村出身の夫婦が二九組もあったことは、単身で出稼人として来住するだけではなく、一家をあげて江戸へ来住する流入民が多かったことを示している。神谷町でみると生国として現われる国は、武蔵・相模・下総・上総・安房・上野・陸奥・越後・越中・能登・信濃・駿河・三河・伊勢・紀伊・摂津・因幡と、関東を中心にして広範囲にわたっている。江戸の町は、このように全国各地から来た人々に支えられ、維持されてきたのである。