表24 出生地
町名 ・ 年代 | 当地出生 | 他所出生 | 不 明 | 合計 | ||||||
男 | 女 | 合計 | 男 | 女 | 合計 | 男 | 女 | |||
神谷町 | 天保15年 弘化3年 嘉永2年 | 20 32 21 | 20 24 19 | 40 56 40 | 21 13 20 | 10 6 10 | 31 19 32 | 0 0 1 | 0 0 4 | 71 75 77 |
宮益町 | 慶応3年 | 246 | 239 | 485 | 104 | 92 | 196 | 0 | 0 | 681 |
道玄坂町 | 同 | 55 | 51 | 106 | 21 | 20 | 41 | 0 | 0 | 147 |
東福寺門前 | 同 | 36 | 34 | 70 | 10 | 15 | 25 | 0 | 0 | 95 |
(注) 資料は表22に同じ。
明治初年の赤坂表伝馬町一丁目の世帯主の他所出生率は四四・四%(一一七人中五二人)、同裏伝馬町一丁目では五六・五%(一八六人中一〇五人)、元赤坂町では四四・四%(一三三人中五九人)というように、断片的な資料からではあるが、港区地域では他所出生者が多かったのではないかと思われる。
【都市底辺を形づくる他所出生者】 戸主の出生地と階層との関連を宮益町でみると、家持層において他所出生率は二一・一%(三八人中八人)であるのにたいし、店借層では四一・三%(一二六人中五二人)と、他所出生者の八一・三%は店借によって占められていた。
表25によって夫婦の出生地をみても、夫婦とも他所出生のケースは店借層に多い。このことは、流入民として江戸に来住するものは、まず店借となり都市底辺を形成することが多かったことを意味している。
表25 夫婦の出生地
夫 婦 の 出 生 別 | 神 谷 町 | 宮 益 町 | ||||||
天保 15年 | 弘化 3年 | 嘉永 2年 | 家持 | 家守 | 地借 | 店借 | 合計 | |
Ⅰ 夫婦とも当地出生 Ⅱ 夫は当地,妻は他所出生 Ⅲ 夫に他所,妻は当地出生 Ⅳ 夫婦とも他所出生 | 4 2 5 6 | 5 1 6 4 | 1 0 8 6 | 12 4 3 3 | 1 1 | 1 2 | 44 3 12 29 | 58 7 15 35 |
小 計 | 17 | 16 | 15 | 22 | 2 | 3 | 88 | 115 |
(注) 資料は表22に同じ。
また、神谷町において夫婦とも他所出生であるケースが三五・三%(六件)、宮益町では三〇・四%(三五件)あり、しかも宮益町においては、同一村出身の夫婦が二九組もあったことは、単身で出稼人として来住するだけではなく、一家をあげて江戸へ来住する流入民が多かったことを示している。神谷町でみると生国として現われる国は、武蔵・相模・下総・上総・安房・上野・陸奥・越後・越中・能登・信濃・駿河・三河・伊勢・紀伊・摂津・因幡と、関東を中心にして広範囲にわたっている。江戸の町は、このように全国各地から来た人々に支えられ、維持されてきたのである。