【炭薪仲買・炭薪問屋】

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 まず、以上の三表を通観してとくに目立つ業種について、その特徴を概観しておこう。ここで気付くことは、炭薪仲買と舂米屋の数が極めて多いことである。これは決して港区地域に限ったことではなく、江戸市中全体を見ても同様のことがいえる。つまり、両者は武家や寺社を含めて、それだけ江戸の日常的な市民生活に必要であったことを意味する。炭薪仲買の多くは、おそらく小売商を兼ねていたものと思われ、日常生活での煮炊きや暖をとるための炭薪を供給していたのである。
 炭薪問屋は、これら炭薪仲買へ炭薪を卸す問屋であるから、その数は仲買に比べてずっと少ない。また、同種の竹木炭薪問屋は、むしろ炭薪商を兼ねた材木問屋としての性格をもち、建築資材としての竹木のほうに比重があったと思われる。
【舂米屋】 次に、目立って数の多いのは、舂米屋の存在である。これも当地域に限ったことではなく、江戸市中全体に目につき、その意味では炭薪仲買と同様に、人口の多い都市的な業種のひとつといえよう。玄米から日常の食卓にのぼる飯米になる白米を搗いて小売するのが、舂米屋の基本的な業務であり、まさに生活必需品の販売を原則とする。しかし、実際には舂米屋の業務内容は広く、単に玄米を搗くだけでなく、近在の農家へ玄米を搗きに出張する米搗人足、あるいは家々の注文に応じて米搗きに出廻るいわゆる大道搗米の口入れを業とする者もあった。すなわち、多数の人間の食する飯米を搗くためには、かなり多くの労働力を必要とするであろうし、それは個々の舂米屋だけで足るはずはなく、そこに従属するさらに多くの搗米人足が存在していたものと考えるべきであろう。
【地廻米穀問屋と脇店米屋】 この舂米屋たちは、ほとんどが地廻米穀問屋と脇店八ケ所組米屋から玄米を購入したものと思われる。江戸に輸送されてくる米は、上方筋よりくる〝下り米〟を引き請ける本米問屋と、奥州筋からの奥筋米、関東周辺の地廻米を扱う地廻り奥問屋とがあった。幕末にはさらに関東米穀三組問屋と地廻り米穀問屋とが区別され、後者は番組に分かれ、それぞれの組合に所属する。主として、地方から買い集めた輸送米を舂米屋に売り捌いたのが地廻り米穀問屋である。他方、幕府や諸藩の払い下げ米や蔵前札差しの売却米を扱ったのが脇店米屋であった。また、脇店米屋は舂米屋との中間にあって、仲買的な性質をもち、舂米屋だけでなく直接消費者へ売渡す場合もあったという。芝には芝三組、大芝組とがあり、地廻り米穀問屋を兼業するものが多く、芝三組は地廻り米穀問屋の十八番組と、大芝組は同じく四十八番組とを兼ねている。
【両替屋】 このほか、この地域全体に比較的多い業種は、両替屋と人宿であろう。両替屋には、本両替と銭両替(脇両替)とがあり、銭両替は前者にたいして従属的な関係にあった。両替屋の主な業務内容は、金銀と銭の交換だけでなく、金銀の売買、預金、貸付、手形振出、手形融通、為替取組などのほか、ときに本両替は金銭の相場を立てる場合もあり、市中の金融全般を取り扱った。しかし、港区地域にみる両替屋はすべて銭両替に属し、主に金銀為替を扱うが、本業の両替のほかに、多くは質屋、酒屋、油屋などを兼業している。そうすることで取引先の為替や金を無利息で預かるなどして、自分に有利な商取引を展開していた。
【人宿】 次に、人宿の多い町には、ほぼ同様に六組飛脚問屋が多い傾向にある。幕末期に至って、飢饉やその他の災害によって、絶対的な窮乏状態にある農村から江戸へ流出する人口は、次第に増加の傾向にあり、その多くは、奉公人や行商人となった。なかでも市中に親戚や知人のない人たちが、奉公人として奉公口をみつけるためには、一般に人宿の寄子(よりこ)になるのが当時の慣習である。この〝人宿〟とは、法的な呼称で、一般には口入れ、受人宿などと俗称されており、この種の奉公口の周旋屋は、非公認のものも含めると市中かなりの数にのぼったと思われる。そして、この人宿を仲介にした奉公人の雇傭先は、主に武家方であり、徒士、若党、中間、陸尺などのいわゆる「軽き武家奉公人」として雇傭されたという(南和男『江戸の社会構造』)。
【六組飛脚問屋】 人宿と同類の業種である六組飛脚問屋は、もともと通日雇請負人と称し、大名の参勤交替制の確立とともに盛んになった。すなわち、この問屋は大名が参勤するとき、国許から人足を同伴させて下国するが、その時に必要な人足を周旋する請負業者のことである。街道の運輸・通信に関する人足を周旋するため、自ら人足部屋をもって多くの人足を抱えているばかりか、諸家への出入も頻繁にあったと思われる。そして、営業上の性質から、しばしば宿方と対立することもあり、寛政元年(一七八九)には道中奉行の管轄のもとで宿方との協定を結ぶに至った。そして、この六組飛脚問屋は、江戸市中の六組一九四人の請負人によって組合を結成していた。そのうち、港区地域では大芝組(四二名)、芝口組(二〇名)がこれに加入して仲間の統制や規律を立てている。
 このように、人宿と六組飛脚問屋は、いわば武家御用の人足請負人、口入屋としての性格をもつ業種で、その意味では武家に依存する職種といえる。付録図でも明らかなように港区地域には大名屋敷のほか旗本・御家人たちも多数居住しており、そのような有利な後背地を擁してこそ、この二業種は成立している。と同時に、この地域は郊外の農村部とも比較的容易に接しうる地の利にあった。そして、これら農村からの出稼労働者たちは、いつしか都市の暗い裏店に多く住むようになっていったものと思われる。
 以上、港区地域全体にかなり目立つ諸問屋について、その業種のもつ性格を概説してみた。以下では、これらの業種を含めて、具体的に町々の諸特徴との関連において説明を加えてみよう。