【麻布界隈】

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 水上の通路である新堀川からは、先の赤羽橋を通過する脇往還の飯倉、西久保道のほか、一ノ橋、二ノ橋、四ノ橋のおのおのから麻布方面への道がつながっている。一ノ橋には堀留があり、その側に炭薪土置場がある。一の橋から西方へ向かう道は、麻布新網町一丁目角から北へ向かって、永坂を経て飯倉へ、また、宮下町を北へ向かって鳥居坂を経て飯倉道へ、さらに、宮下町から斜に南北日ケ窪町の谷間を通り六本木から飯倉道へと抜ける道がある。逆に、この道を南へ向かうと坂下町、善福寺門前元町を経る場合と、宮村町から曲がり一本松町を経て、善福寺門前西町、本村町で二ノ橋からの道に結ぶのとがある。そして、これらの道には四ノ橋から御薬園坂を経た道が、本村町の筋違いの四辻で交錯する。四辻をさらに西へ向かう道には、麻布三軒家と桜田の町屋があり、笄橋から青山原宿を経て相模大山道へ結ぶ。笄橋では宮下町と南日ケ窪町の間から玄磧坂、麻布桜田、富士見坂を経た道と合流する。また、桜田町から三軒家町そして木下坂を経て広尾、渋谷方面へ行く道もあり、これは本村町から斜めに南部坂を経る道と広尾で合流している。
 このように麻布地域は、全体に大小の武家地、寺社地が複雑に入り組んでおり、地勢的にも坂道が多く起伏に富んだ一帯である。また一方、二ノ橋から四ノ橋、そしてその後背地は、大名の下屋敷や抱屋敷が混在しながら、さらに郊外の田園へとつながり、町屋も百姓町屋としての成立がみられる。それゆえに、飯倉、西久保、赤坂方面の町々につながる麻布①の谷町、三谷町、竜土町などには、武家の需要に供する人宿が多く存在する。しかし、他方では在方との結びつきもみられる。
 すなわち、新堀川の利用は、この地域でもかなり大きい比重を占めたと思われ、一ノ橋側の炭薪土置場には、炭薪問屋や炭薪仲買の貨物が山積され、麻布の住宅街への供給地となったであろう。また、善福寺門前元町は雑色町とも俗称されており、その種の下級役人が多く居住していたという。その他にも桜田、広尾、田島町、十番、馬場町の周辺も比較的小身な旗本・御家人の居宅が並び、麻布一帯はほぼ城南地域の住宅街といってよい。そのため、日常生活に欠かせない炭薪や飯米を供する炭薪仲買と舂米屋は、平均してその数が多い。そのほか、両替屋、味噌問屋、地廻り塩問屋、紺屋なども見られる。別表だけではその詳細は不明であるが、これらの町々にも小売商人が散在していたことは言うまでもない。表30・32には不十分ながらその様子が多少ともうかがい知れる。
 以上、「商人名前カード」のうち『諸問屋名前帳』を基礎的な資料にして作成した各表をもとに、江戸市中の城南にあたる港区地域の商業的な特色をみた。庶民の日常生活に密着した小売商人の様態を把握できない憾みはあるが、『江戸買物独案内』などの表32と照合することで、ある程度の商業的な傾向をさぐってみた。先述したように、近世社会の商業的な展開は、なお地域的な特色を色濃くもつが、そこでの商品の流通は必然的に人間と人間の関係であり、その移動の問題でもある。本稿では、この地域の地勢的な特色を考慮に入れて、水上の通路としての河川と道路に注目して、そこに城南地域の町々の商業的な特色を可能な限り読みとってみた。商業活動は人間の社会的行為の根本であるが、そのいっそうの理解のためには他の諸節に記された当地域の歴史的社会的な諸特徴をも合わせて参照されたい。
 なお、ここでは地域と商業のみに限定してのべたが、別添の「江戸図」も同様に最大限利用されたい。