江戸の市街地発展にともない、寺社は次第に府内の縁辺へと移転分散していった。すでに前述したように、その傾向は比較的早い時期からみられ、その後、多少の再移転もみられるが、その地にほぼ定着していく様子がうかがえる。
一般民衆との信仰に結びついて、寺社の門前は、宗教的に敬虔な空間であるとともに、そこは人々が賑わい集う繁華な〝広場〟でもあった。寺社の門前に町屋が出現して、かつての市街地と連続し、あるいはその一部を形成するようになるのは、都市形成のひとつの類型である。長野の善光寺、成田の新勝寺などのように、それ自体独立した都市形成の契機となった有力寺社ばかりでなく、江戸市中の寺社門前にもいわゆる門前町の形成が多数みられる。港区地域にも、その特徴がいちじるしい。
【門前町屋の形成】 文政の『町方書上』によれば、港区内には二七〇余の町屋を数えることができるが、そのうちの四分の一強にあたる七六は、門前町屋を形成している。この寺社門前町については、次のような種類がみられるが、実際の区分がどれだけ明確であったかは疑問である。
門前町 門前、境内の土地を地代などを徴収して町人に貸与。
寺社領町 領内に地代を徴収して町人に貸与。町名を定めたところが多い。
地子町 寺社領町とほぼ同様、ただ町名を立てない。
門前年期町 期限つきの貸与。一〇年年季のところが多い。
このように門前町は、何らかの形で寺社境内あるいはその周辺を含めて町家家作を起立し、それを町人へ貸与して、そこから土地使用料を徴収するところにはじまる。幕府の保護を受ける有力寺社を除いて、寺社の経済状態は、当時決して豊かなものではなかった。また、門前が繁昌して民衆が集まることは、信仰に付帯する現世的な利益として、それなりに尊重されてきたものと思われる。
たとえば、『御府内備考』によると、三田中道寺門前の起立については「当門前起立之儀者中道寺極貧寺ニ付」とあり、門前町起立の理由を経済的な貧窮にあるとしている。その他門前の繁華ゆえに自然発生的な町屋の形成も考えられるが、多くは寺社の統轄機関である寺社奉行にたいして「門前町家作之儀」が願い出され、そのうえで実地検分が行なわれて、初めて町屋の起立を許可されるという手続きを踏んだ。
【港区地域の門前町の形成】 港区内の門前町の成立は、寺院の創建や転入そのものが早くから定着したように、やはり比較的早い時期に実現している。たとえば、二本榎広岳院門前はすでに文禄三年(一五九四)に西之久保の地にあり、その後承応二年(一六五三)に至って、二本榎に移っている。「以前より門前家作御免ニ付町家共引移申候」(『御府内備考』)とあることから、門前町屋を含めての移転とみられる。
港区内の門前町では、この広岳院門前がもっとも古い事例のひとつと思われ、その後慶長年間(一五九六~一六一四)に起立許可された門前町は十一カ所にのぼる。さらに、続く元和・寛永年間(一六一五~四三)の二八年の間に二一カ所の門前町の起立が実現しており、寛永の時点で、すでに港区内の門前町の半数近くが成立していたことになる。それ以降、万治・寛文年間(一六五八~七二)に多少新規起立のピークをみるほか、宝暦までほぼ毎年のように一、二の門前町の成立をみる。
港区に限らず、門前町の成立には当然のこととして寺社の存在が条件となる。それゆえ寺社の多い麻布、三田、芝増上寺周辺部などの地域に門前町屋が多く、また、この地はいわゆる〝古跡〟や有力寺社が多いため、比較的古くからの門前町屋を形成している。
先の二本榎広岳院の場合のように、何らかの理由によって寺社が他所からこの地域内へ転入してくると、同時にその門前町も一緒に移った例はほかにも見出され、それは家屋と居住者を含めた丸ごとの移転となった。青山の善光寺門前も同様の事例とみられ『御府内備考』には、次のような記事がみられる。
門前起立の儀は宝永二酉年十二月中善光寺谷中より当所麻布領上渋谷村にて替地仰付られ候節、元地より付添来る町人共四人程これあり、門前に小屋補理仕罷在候
谷中から移転してきた善光寺は、最初の起立当時から門前町屋に居住する町人四人をともなっての転入である。この記事の末尾には「旧家」として「家主善右衛門」「家主又兵衛」の二名の素姓が付記されており、いずれも元地谷中以来の代々家主としての役にあり、先の四人の町人たちのうちの二人と思われる。
その他、麻布不動院は俗称六軒町ともいうが、それは同所を不動院が拝領する以前にすでに百姓商売家が六軒居住していたことによる。そして、「其後門前町屋ニ相成小間三拾間之所唯今以家主六軒ニ御座候」(『御府内備考』)とあることから、先の六軒は居付(いつき)のまま門前町屋の家主になったものと思われる。
【寺社奉行の支配】 このように港区内の門前町屋の成立は、寺社の性格やそれ以前の土地の在り方などによって、種々の特色をもっていた。元来、寺社地そのものは普請奉行の管理下にあり、百姓地は代官支配に属した。そして、寺社そのものや僧侶神官および寺社地に居住する町人たちは、寺社奉行の支配をうけるのが原則であった。すなわち、門前町屋に居住する町人たちの管理や訴訟の審理、犯罪人の逮捕に至るまで、当初はすべて寺社奉行の統轄するところであり、町屋を形成しながらも、実際には町奉行の手のとどかぬところにあったのである。
勘定奉行、町奉行とともに、三奉行のひとつである寺社奉行の成立は、寛永十二年(一六三五)であるが、三奉行のなかでも寺社奉行の格式は高く、一万石以上の譜代大名のなかから任命された。それゆえ旗本から任命される町奉行にたいして寺社奉行はつねに暗黙の権威を誇示するところとなり、行政上や警備治安のうえで、町奉行は寺社地統治に関してつねに苦しい立場にあったといえる。
【寺社・町両奉行の支配へ】 このような複雑な支配系統をもつ寺社地、門前町屋は、周辺が繁華になればなるほど、また、逆に寂(さび)れればそれだけ行政・警備治安のうえでさまざまな弊害を生んだと思われる。そのために延享二年(一七四五)幕府は、この弊害を除くために門前町の支配を寺社奉行と町奉行の両支配下に置くこととした。すなわち、寺社地そのものはあくまで寺社奉行の管理下におき、そこに居住する町人たちへの行政上の支配権は町奉行に属することとした。そして、港区内の多くの門前町屋もこの例にもれず、延享二年、町人たちは町方の支配をうけることになる。
しかし、行政支配が寺社と町方の二奉行に分離したからといっても、すでに門前町としての発展を遂げている町々にとって、その統治を明確に区分することはなかなか困難であったと思われる。また、二奉行の統轄によって、かえってその支配が複雑になり、支配統治の行き届かない隙間を生むことにもなった。
【民衆にとっての宗教】 元来、宗教的な信仰や行事とは、ハレの世界に属するものであり、日常の俗的生活を逸脱したところに形成される〝聖〟なる世界でもある。それは他面、日々の労働からの解放としてあり、その意味では、信仰はつねに精神的な敬虔と快楽とを表裏にしたハレの世界でもある。寺社の催す祭礼や開帳などの宗教行事は、いわば民衆の精神的な避難所であり、門前町はそのための広場としての役割をもつ。その傾向は、幕末期に至って、さらに強まるが、それは民衆の宗教観が新しい時代へ向けて変質しはじめているひとつの現われでもあろう。