このような江戸市中全体にみられる開帳の特色は、その城南地域をなす港区内にもほぼ同様にあてはまる。港区内での開帳は、貞享二年(一六八五)春、三田浄閑寺における魚籃観音の開帳を初見とする。その後、慶応三年(一八六七)十月、芝金地院での観音開帳まで、その数は一八八回にのぼる。そのうち四五回は出開帳で、殘りはすべて居開帳となる。また、出開帳のうちには、延享四年(一七四七)七月、三田神明の神明神体が同じ港区内の西久保八幡へ出開帳するという事例もある。さらに、区内の神仏が他の江戸市中の寺社へ出開帳した例としては、文化二年(一八〇五)三月に、青山善光尼寺の阿弥陀が江戸開帳のメッカである両国の回向院へ、また、文政元年(一八一八)四月に、麻布日ケ窪竜興寺の子安地蔵が、深川の永代寺へそれぞれ出開帳した二例がある。
逆に、区内の寺社へ出開帳した例をみると、江戸市中からのものもあるが、多くは武蔵、相模など近郊の寺社からで、遠くは陸奥、越中、越後などからの出開帳もみられる。これら出開帳の宿坊となった寺院は、芝円福寺、芝神明、芝如来寺、青山善光寺などが多く、また、増上寺など有力寺社の集中する芝地区は、城南随一の盛り場とも隣接しており、開帳の場所としても格好であったと思われる。
港区内に一四三回を数える居開帳は、時期的にやはり寛保~天明期に多いが、元禄十六年(一七〇三)には、一年間だけで区内六カ所で居開帳、一カ所で出開帳が催され、周辺地域は大いににぎわったものと思われる。このほか、安永七年(一七七八)六カ寺、享保十年(一七二五)、安永二年(一七七三)に、それぞれ年間五カ寺において開帳が催されており、周辺はつねに民衆の集うところとなった。
居開帳の回数を寺社別にみると、増上寺山内の宝珠寺が弁才天を七回開帳しているのを筆頭に、三田浄閑寺(魚籃観音)、青山善光寺(阿弥陀)、芝泉岳寺(曼荼羅)が各六回、そして芝神明(天満宮画像、弁才天)、麻布広尾天現寺(毘沙門天)、麻布善福寺(了海上人木像)が各五回の開帳をかぞえる。
このように、港区内の開帳の数は、多くの寺社と門前町屋をもっていることで、かなり多数にのぼり、江戸市中でもかなり隆盛をきわめた地域と思われる。すでにのべたように、開帳は純粋に信仰によるだけでなく、民衆との宗教的な結縁を表向きにした寺社側の現世的な経済利益の探求にほかならない。とくに、開帳の主たる目的は災害、老朽などにより損壊した寺社建造物の修復費獲得が多く、寺社奉行に提出された開帳出願理由の四分の三以上がこれによるという。
寺社は、一般に建造物の修復助成を幕府に申請して、いわゆる老中の許可になる御免勧化(かんげ)をうけるが、開帳については、寺社奉行の寄合決定で差し許され、御免勧化に比して格付けは一段低いが、経済的な補塡としては、むしろ有効な手段であった。ここに開帳がたびたび催された大きな理由があろう。しかし、これらの寺社が開帳によって、どれだけの利益金を得たかの正確な実数はよくつかめていない。
【開帳された神仏】 さて、次に開帳される神仏についてみると、宗教的な信心により結縁を求めることはもちろんであるが、心情的には何らかの具体的な霊験をもつと信じられている偶像であることが望まれる傾向にあった。江戸市中の開帳寺社を宗派別にみた場合、日蓮宗、天台宗、新義真言宗、浄土宗の寺社が圧倒的に多く、この特徴は港区内においても同様である。また、開扉される本尊神仏も観音、日蓮、阿弥陀、弁才天、薬師、不動、地蔵の順に多く、港区の場合には、このほかに広尾天現寺、金杉浜町正伝寺の毘沙門天、愛宕前真養院、芝高輪常照寺の庚申などの開帳がみられる。港区の観音では魚籃寺とも称する三田浄閑寺の魚籃観音が有名なほか、赤羽心光院の布引観音、芝高輪宝蔵寺の子安観音などがある。また、薬師の伊皿子福昌寺、弁才天の芝高輪宝蔵寺などは、港区内でも著名な神仏として『江戸名所図会』などにも見出せる。
【青山長谷寺の開帳】 このような開帳のにぎわいを伝える一例として、江戸の文人大田南畝は、その『半日閑話』のなかで、青山長谷寺の開帳のにぎわいを次のように伝えている。
廿九日(安永四年正月か)より五月廿九日迄、青山普陀山長谷寺にて、京都勅願所音羽山清水寺観世音開帳、霊宝多し。境内の見世物、芝居、曲馬等挙て数へ難し。参詣両国回向院より多し。
長谷寺での開帳と同時並行して、江戸市中でも群を抜いて開帳数の多い両国回向院においても、京都清水円養院観世音と井の頭弁天の開帳があった。回向院は、当時の江戸市中でもいわば開帳のメッカともいうべき寺院であり、浅草や吉原方面へは地続きという地の利もあって、市中ではもっとも繁華な地域である。南畝の表現に多少の誇張はあるにしても、長谷寺の開帳時は、門前に見世物、芝居、曲馬の興行もあって、かなりの人出があり、にぎわっていたことを伝えている。
【寺門静軒の開帳観】 しかし、このような寺社開帳の隆盛にたいして、幕末の文人・寺門静軒は『江戸繁昌記』のなかで、次のような皮肉な見方をしている。
神崇(とうと)しと雖ども、仏尊しと雖ども、江戸の賽銭を仰がざれば、阿弥陀も或は光を欠く、神の格(いた)るは測るべからず。争ひて霊趾を挙げ、競ひて妙脚を運び、輻々湊々(ふくふくそうそう)、四遠爰(ここ)に萃(あつ)まる。未だ知らず、神都人に福するか、抑々人仏に福するかを。
ここに幕末期に至っては、人も仏もすでに世俗現実的たらざるをえない社会情況となりつつあったと言わざるをえない。