(五) 武家の教育と庶民の教育

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 近世における教育は、武士と庶民とでそれぞれ別個の教育機関をもった。江戸には儒教の祖である孔子を祀る湯島の聖堂が設けられ、儒教のなかでもとくに朱子学を官学とし、昌平黌がそのメッカとなった。この幕府直轄の学問所のほかに、諸藩は自藩の子弟を教育するために各地に藩校を設立している。
 各藩は文武両道にすぐれた武士を養成するために、藩校の設置にとくに力を注ぎ、江戸藩邸内にも学問所を設けた藩もあった。今も文教地区として、多数の諸学校を擁する港区内にも、当時すでに八つの藩校が存在したという。また、幕末には神明町先の海辺に、江川太郎左衛門の「大小炮習練場」もあった。
【藩校】 表40は、『日本教育史資料』から抽出したものである。藩士の子弟は七、八歳になると入校の手続きをとるのが普通であった。学科は武芸を中心に、漢学、医学、兵学、習礼、歌学など広範囲にわたり、教科書には孝経、四書五経、左伝、史記、漢書、歴史書など多彩である。また、教授の方法は、素読、会読を基本としている。岡藩の武芸稽古所では、武芸の各術について毎月三~六回の教授がなされ、また、沼田藩敬脩堂では、年一度および月二度の「大小改」と称する試験も実施されていたという。校費は生徒から授業料を徴収することはなく、すべて藩費をもって賄われることが多く、岡藩では藩費をもって他藩へ遊学させることさえあった。
 

表40 港区内にあった藩校

名 称所  在  地藩 名創  立廃 止創 設 者
武芸稽古所
講 堂

惜陰堂
敬脩堂
尚友館
尚友軒
集義館
芝口二葉町邸内
江戸青山足軽町
二本榎下邸内
江戸三田小山邸
麻布江戸見坂邸内
麻布竜岡旧邸内
芝葺手町江戸見坂邸内
愛宕下新橋外藩邸内
岡藩
郡上藩
中津藩
鯖江藩
沼田藩
竜岡藩
沼田藩
丸亀藩
天明七年
天明年間
天明年間
文化十年十月
弘化元年九月
安政元年
文久二年


維新
慶応年間
維新
維新



中川久貞

奥平昌高

土岐頼寧
松平縫殿頭集謨


『日本教育史資料』より作成。


【寺小屋】 こうした武家の子弟を教育する幕府の最高学府としての昌平黌や各藩の藩校にたいして、一般庶民の教育機関としては、寺小屋や私塾があった。
 寺小屋の起原は、鎌倉時代から室町時代にかけて、武家の子弟が一人前の武士として現職に入る前に、少年期を寺院に起臥しながら、一般教養として学問、詩歌、管絃など諸芸を修得した風習にはじまる。しかし、近世に至って、その高等教育的な特徴は失われ、教養本位から実用本位の初等教育機関へと変質していった。そこには寺請制を施く幕府の寺社政策およびそれを根拠とする民衆統治策が大きく影響していたものと思われる。
 『日本教育史資料』によれば、開設年代を明記する寺小屋は一万一、二七二校を数え、その年代別の内訳は表41のとおりである。江戸府内の寺小屋についての正確な実数はつかみにくいが、『兼山麗沢秘策』(享保七年)では八〇〇校といい、『筆道師家人名録』(文政四年)では四九六校、『筆道師家高名競』(天保初年)では二三〇校を数えている。また、『東京府教育沿革』(明治四年)では、東京府下として五二一校、そして明治十六年調査になる『日本教育史資料』では江戸府内に二九五校を数える。
 

表41 寺子屋開設年代

年  度開設数
正徳以前
(  ~1715)
94
享保~安永
(1716~ 80)
140
天明~享和
(1781~1803)
324
文化~文政
(1804~ 29)
1,063
天保~弘化
(1830~ 47)
2,808
嘉永~慶応
(1848~ 67)
5,808
明治初期
(1868~  )
1,035
11,272

『日本教育史資料』より作成。


 
 石川謙『日本庶民教育史』では、以上から推定を下して、「江戸府内に規模の稍々大きい寺小屋が三、四百位あり、規模の小さいのまで加へると殆ど八、九百の師家があったであろう」とのべている。いずれにしろ、庶民の教育機関としての寺小屋は、化政期を境にして、幕末にかけて隆盛に達していたということができる。
 寺小屋での教育内容は、いわゆる読・書・算を主とするが、それは庶民生活に必要な知識、技能そして躾(しつ)けを身につけることに目標があり、あくまでも庶民の職業や実用に供することを目的とするものであった。寺小屋では、伊呂波(いろは)や数字などを教えるほかに、教科書としていわゆる往来物(おうらいもの)と称する手本がよく利用され、それも百姓往来、農業往来、商売往来、職人往来など地域や職業を考慮に入れた往来物が利用されていた。そのほか地方によっては、実際の社会生活を営むうえで必須な心得書でもある五人組帳前書なども、いわば公民読本として採用されることもあった。
【私塾】 次に、私塾はその名称のとおり、市井の学者による個人経営の塾のことで、寺小屋の実用本位の教育内容に比すれば、さらに高度な教養とともに、それぞれ何らかの専門的な知識や技術を教授するところに特徴があった。港区内の寺小屋、私塾を江戸期に開業したものに限って、『日本教育史資料』および『開学明細調』から抽出したものが表42である。なお、後者の資料では寺小屋も私塾のひとつと考えられている。また、調査時の違いからすでに塾主や所在地が変更したものもあるが、明らかに同一重複するものはこの表から除いてある。
 

表42 港区内・寺子屋および私塾一覧

名 称学 科所 在 地開 業廃 業教 師生  徒塾 主
寺子屋
1
2

4
5
6

8
9





15

17
18

20
21
22
23
24


27



31
32
33
34
35


38
39
40
41
42
43
44
45
46
47

竜江堂
玄英堂
若水堂
松英堂
大林堂
芝海堂
芝雲堂
魁星堂
雲和堂
竜和堂
三清堂
天興堂
林光堂
岸泉堂
深海堂
文池堂
竜巴堂
和墨堂
玄昌堂
晸泉堂
竜玉堂
竜池堂
竜海堂
芝水堂
玄鶴堂
玄盛堂
昌玄堂
三峡堂
竜昇堂
竜嘯堂
三栄堂
(竜顕堂)
竜松堂
(数学書塾)
竜暁堂
大隅堂
歳泉堂
暁松堂
連松堂
文会堂
祥雲軒嘯月
尚志塾
大泉堂
墨僲堂
青柳堂

暁川堂

読算

読算


読算



読文
読書

読算
算術

読算

読書
読算

読算





読書
読算
読算




読算



読書

筆道算術
筆道
漢学
筆道

筆学
筆道
筆学

芝西応寺町
白金台町二丁目
浜松町三丁目
芝二葉町
芝車町
浜松町三丁目
芝二丁目
愛宕下
虎之門内
金杉一丁目
田町三丁目
浜松町二丁目
高輪北町
宮本町
金杉浜町
横新町
車町
桜田備前町
芝口三丁目
源助町
金杉四丁目
西応寺町
本芝三丁目
松本町
西久保広町
三田台裏町
新堀町
永坂町
芝森元町
新網町二丁目
飯倉町六丁目
材木町
新竜土町
宮下町
本村町
宮村町
赤坂黒鍬谷
表二丁目
築地三分坂下
西久保神谷町一五
神明町一
麻布簞司町一三
本船町一八
桶町一四
高輪南町
麻布桜田町二五
青山権田原町二二

慶応二年
 〃
嘉永三年
弘化三年
慶応二年
万延元年
慶応二年
 〃
文政一二年
嘉永三年
文化一三年
安政三年
天保四年
安政元年
慶応元年
文久三年
慶応四年
万延元年
安政六年
〃 五年
慶応四年
嘉永二年
〃 四年
天保二年
弘化三年
慶応三年
天保一四年
弘化三年
文政八年
弘化元年
文政一二年
天保三年
慶応元年
弘化二年
慶応二年
文久二年
安政三年
天保四年
安政四年
慶応三年
安政三年
安政五年
慶応三年
安政五年
元治元年
嘉永七年
慶応三年

明治八年
 〃
継続
 〃
 〃
 〃
 〃
 〃
 〃
 〃
 〃
 〃
 〃
 〃
 〃
 〃
 〃
明治一三年
継続
 〃
明治四年頃
 〃
継続
明治一一年
〃 五年
継続
 〃
 〃
継続
 〃
 〃
 〃
明治七年
継続
明治一三年
継続
 〃
明治四年
〃 二年









男二
男一
男二
女一
男一
男二
男一
男一
男一
男二女一
男一
男一
女一
男三
女一
男一
男一
―女一
男一女一
女一
男一
男二
男二女一
男三女一
男一
男二女一
男一
男一
女一
男一女一
男一女一
男一女一
男一
女一
男一
男一
男一
男一
男一
男一
男一
男一
男一
女一
男一
女一
男一

男六〇 女三〇
男三〇 女二〇
男四〇 女四〇
男三〇 女三五
男一六 女一五
男五二 女五〇
男七〇 女八〇
男一五 女一〇
男二〇 女一〇
男七〇 女五〇
男八〇 女八〇
男六八 女八二
男四三 女五七
男四五 女三五
男一二 女一八
男五二 女六九
男三二 女四三
男五〇
男四五 女五五
男二〇 女四〇
男四〇 女二〇
男五〇 女二五
男一三〇女一五〇
男一四〇女一二〇
男四〇 女六〇
男一一二女一〇三
男七  女四
男一五〇女一三五
男一九 女二二
男二〇 女二五
男三二 女二〇
男三八 女二五
男三〇 女二五
男八〇 女一二〇
男三〇 女二五
男五  女五
男一六〇女一四〇
男六五 女八二
男五七 女七三
男二〇 女二八
男三二 女三〇
男一三
男二九 女三四
男七  女一一
男一四 女一二
男二七 女五三
男一二 女七

奥山省三
松尾逸郎
浜田正作
荒川キン
加藤鉄造
高橋茂兵衛
穂島敏行
黒沢吉順
小野中休
田原真三
木林邦昌
小南文左衛門
和田ウタ
丸橋寿繁
里見テイ
黒木文美
宮崎澄文
今井ノウ
鳥羽篤治郎
松山ヨシ
大沢嘉右衛門
前田教政
今井速水
久保田永司
松野辰次郎
飯田要
三橋成美
百瀬為芳
寺川コト
〓平作
小暮寅三郎
早川信成
小菅重次郎
磯セイ
中川頂玄
山本西淳
山本一助
富岡新太郎
今枝栄蔵
岸本久七
丸橋房八
倉田務
大橋新三郎
中川たか
春日繁治郎
小沢梅園
多田好業

 
私塾
1
2
3
4
5
6
7
8
9
10
11
12
13
14
15
16
17

慶応義塾
尚友軒
観頤堂

尚志堂
時習義塾
温知塾
文会義塾
端塾
明霞書院
乾々塾
芙蕖館
繕生塾
雪丘楼


玄明堂

英漢
和漢
漢学




和漢医
漢学
漢学


西洋医学
漢学


和洋算

三田二丁目
葺手町
 〃
増上寺境内
西久保城山町
増上寺内昌泉院
兼房町
露月町
谷町
材木町
飯倉片町
芝森元町
芝森元町二丁目
永坂町
青山裏百人町
六本木
青山御手大工町

安政五年
文久二年
天保七年
弘化二年
天保四年
慶応二年
万延元年
嘉永年間
嘉永五年
天保四年
嘉永三年

嘉永五年
安政四年
弘化三年

万延二年

継続
 〃
 〃
 〃
 〃
明治六年
〃 一五年
〃 四年頃
明治一一年
明治一〇年
継絖
明治初年
〃 五年
慶応三年
文久二年

継続

男一〇
男三
男一
男一
男一五
男一
男一
男一
男六
男一
男一
男一
男一
男一
男一
男一
男一

男三〇〇
男六三
男五〇
男一六
男三〇〇
男三二
男三〇
男二三
男三〇〇
男三二
男六〇 女四
男三五 女七
男七〇
男二〇
男二〇
男三〇 女五
男一一一女三

福沢諭吉
若松甘吉
西島周道
高知達三
川崎魯助
須山雅頌
松苗貫一郎
林文同
林鶴梁
宮崎誠
岡寿考
服部元彰
山本照明
菊地誠一郎
山井璞輔
村山葆
熊切民次郎

(注)
 アラビア数字のマル囲みは明治以降私立小学校へ昇格。


 
 一覧表から港区内でいちばん古い開業の寺小屋は、田町三丁目、塾主木村邦昌の三清堂で、創立は文化十三年である。おそらく、それ以前に開業したものがあったと思われるが不明である。その後、天保期から寺小屋は次第に増加の傾向にあり、幕末に至って頂点に達している。その理由としては町方に居住する商工業者が次第に経済的な力をつけ社会的にも実用主義的な風潮が盛んになってきたことがあげられる。
 私塾の成立は、寺小屋に比較してほとんどが幕末期の創立で、観頣堂と尚志堂のみが天保期に開業している。私塾は、高度専門的な知識や技術の教授だけに、外国船渡来にはじまる幕末の社会情勢は、これら私塾を積極的に必要にしたものと思われる。
 寺小屋・私塾の経営者ともいうべき塾主についての資料からみると、寺小屋の場合には圧倒的に町人が多く、次いで武士がつづく。そして、寺小屋の名称から連想する僧・神官は意外に少なく、五名を数えるに過ぎない。私塾の場合には、逆に武士の塾主が多く、町人がそれにつづく。また、寺小屋の師匠には七名の女師匠=塾主をみるが、私塾ではほとんどが男の師匠である点、その教授内容と関連があろう。
 次に、生徒数によって寺小屋・私塾の規模をみると、小さいのは一〇名たらずの生徒数のところもあるが、竜海堂の二八〇名(男 一三〇 女 一五〇)。芝水堂の二六〇名(男 一四〇名 女 一二〇名)、玄盛堂の二一五名(男 一一二名 女 一〇三名)、三峡堂の二八五名(男 一五〇 女 一三五)、歳泉堂の三〇〇名(男 一六〇 女 一四〇)など二〇〇名以上の生徒を抱える大きな寺小屋もある。
 私塾については、福沢諭吉の慶応義塾と林鶴梁の端塾、川崎魯助の尚志堂の三校が三〇〇名の生徒と教師をそれぞれ一〇名、六名、一五名を抱える大世帯である。なお、私塾の場合には女生徒はほとんど見られない。また、英学を小学科に採用した慶応義塾では、維新早々に二人の外国人教師を雇入れている。
【庶民教育の普及】 以上、港区内の寺小屋・私塾について、その特徴を概観したが、これによると幕末期に至って、たとえ教育内容が読・書・算を基本とする初等教育であるにせよ、庶民教育はかなり普及していたことを思わせる。また、それだけ庶民生活を送るうえでも、実用的な知識や技術の修得を必要としてきたことを物語る。と同時に、庶民の側の知的欲求も次第に向上してきたといえそうである。
 次いで、港区内での寺小屋の地域的分布を見ると、その多くは庶民人口の密集地でもある芝地区に圧倒的に集中している。東海道を挾む両側の町屋に居住する商工業者たちの子弟こそが寺小屋の生徒たちである。そして、私塾の場合には、その分布がさらに武家地などにも散在しており、実際生徒には武家の子弟も含まれていたと思われる。
 これら寺小屋のうちには、維新後にそのままいわゆる私立小学校に昇格したものもあり、その数は一五校にのぼる。寺小屋や私塾は、わが国の近代教育機関の最基底をなすものとして、すでに近世中期以降、広く庶民の学ぶところとなり、町方に居住する町人たちの子弟にもかなり普及していた。
 寺小屋の読・書・算を主体とする教授内容は、明らかに彼ら商工業者の実生活に必須な実用本位の科目である。しかし、それは庶民生活の知的基盤を共通にもつための努力の顕われであり、それだけ彼らの教育熱、知的欲求が向上していたことを示している。また、幕末期に隆盛をみる私塾は、なお、観念的な教育体系を基本とするが、その専門的な知的水準はかなり高度なものがあった。いわゆる内憂外患の時代を迎えることによって、私塾のなかにはいち早く蘭学、英学その他の洋学を採用したところもあり、それらは確実に日本近代への知的かつ学問的な萌芽を準備したということができよう。