近世の港区地域は、先にのべてきたように、江戸城南地区として江戸市街地の中核から縁辺部分として徐々に発展してきた地域である。広大な武家地や寺社地を散在しながら、店借率七〇%以上が示すように、多数の人口密集地が東海道沿いに走っている。このような土地柄の港区内にはどんな人物が居住していたのであろうか。
周知のように、近世の江戸は、いわゆる町人文化の著しく発展したところであり、その背景には町人たち商工業者の経済的な台頭があった。そして、元禄文化に代表される爛熟華麗な様式文化とともに、化政期の文化にはもうひとつの頂点として、さらに堅実さが加わってきた江戸文化の成立があった。
このころ、当代の江戸の芸苑諸家の人名録がいくつか編まれている。ここに港区内にいかなる文人、画家、書家、学者などが居住していたか、当時の人名録=住所録を利用して、いわゆる芸苑の諸家をひろいあげてみよう。
【芸苑諸家の人名録】 利用した人名録は、化政期については文化十四年(一八一七)から同十五年(文政元年)にかけての成立になる『[諸家人名]江戸方角分』(採録数九一七名)を基調にして、さらに文化十二年(一八一五)刊『[江戸当時]諸家人名録』初編(一九五名)および文政元年(一八一八)刊同書二編(一三五名)によって補充した。
また、化政期と比較する意味で、幕末期の文久元年(一八六一)版『[当時現在]広益諸家人名録』(六二三名)および文久三年刊『文久文雅人名録』(一一七八名)をも利用した。以上から採集した当時の港区地域内に在住の芸苑の諸家は、化政期および幕末期ともそれぞれ、別表のとおりである。なお、これら人名録のもつ一般的な性格については『方角分』に次のような記載が見られる。
中古ヨリ用来レル諸名家人名録多シト雖宿所俗姓等審ナラスコトニ綴文ニシテ懐用ニ弁ナラス依此二十年来東都ニ名高キ諸家ノ名字号俗姓宿所等悉糺シ東西ヲ分チテ一枚摺トナシ書画詩歌連諧ノ品定メ其人ヲ訪フ一助トス且遠境僻地ノ雅友東都ノ音信揮毫等需玉フ枝折トモナランカシ 誹諧狂歌判者披露相済候御仁ハ追而御加入申候
他の四種の人名録にも「他国ノ人江戸ニ遊学シテ諸名家ヘ投刺セントシ又ハ書画ノ揮毫ヲ請求ムル時斯一書ヲ懐ニセバ道程ノ遠近ニヨツテ東西ヲ捜リ尋ヌルノ労ナカルヘシ」などの凡例がみられ、文化の中心地江戸へ出向く地方の人々への道案内に供することが、これら人名録の主な目的であったようである。
おのおのの人名録は、それぞれ採録の基準に若干の相違がみられ、そのために未採録のままになった人物もある。まず、化政期の人名録によって港区内の諸家の居住状況をみよう。