(一) 在・町混在地域の形成と形態

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 近世都市としての江戸の範囲がどこまでであったのかは、第一節にも述べたとおり、一義的には定義の下しにくい問題であった。それは江戸の外縁地域の大部分が、府内(町方、町奉行支配地)と府外(在方、代官・地頭支配地)の混在した地域となっていたからである。
【港区地域の在方分】 港区地域の大部分も、すでに十八世紀には、在・町の混在した地域となっていたが、江戸時代の初めには、金杉川以北の芝地区、桜田七カ町、西久保、赤坂の一部以外の地区は、まだすべて在方すなわち江戸周辺の農村部であった。しかし、江戸の発展とともに、在方にも次第に町場が生まれ、その地区が、住民行政のうえで町方に編入され、在・町の混在した地域が作り出されていったのである。
 しかし、港区地域の在方分は、市域の拡大により消滅したわけではない。江戸時代後期に書かれた『新編武蔵国風土記稿』(文政十一年稿)においても、港区地域の在方分は左のように分割され、港区地域の大部分を覆っていたのである。
(以下( )内はすべて同地区内の町方分を表わす。)
 
   麻布町在方分(本村・一本松・坂下・永坂・南日ケ窪・北日ケ窪・宮村・同代地・三軒屋・広尾・永松・
   古川の一二町)
   桜田町在方分(麻布桜田町)
   龍土町在方分(龍土・龍土材木・龍土坂口・龍土六本木・同代地・三田古川町の五町)
   今井町在方分(今井・今井谷町・同三谷・同寺町・台町(後に市兵衛町)・谷町の各町)
   飯倉町在方分(飯倉一~六丁目・同片町・同永坂町・同狸穴町・同六本木町の一〇町)
   芝金杉町在方分(金杉通一~五丁目・金杉片町・金杉浜町等一一カ町)
   本芝町在方分(本芝一~四丁目・材木町・下タ町・入横町の七カ町)
   一ツ木町在方分(表町・仲町・南町・北町・八軒町)
   上高輪町在方分(芝田町・芝通新町・横新町・伊皿子町・同代町・同七軒町・同明下町等)
   下高輪村(高輪北町・同中町・同南町・北横町・台町・小台町および常光寺・国昌寺・證誠寺・保安寺・
   知将院の各門前町)
   三田村(三田町・三田同朋町・三田台町・三田久保町・三田古川町・三田豊岡町・三田老増町・久保三
   田町・三田南代地町・三田北代地町等一三カ町)
   今里村
   白金村(白金台町・白金猿町)
   原宿村(青山久保町・青山原宿町)
 
 これらの地区のうち、増上寺近隣や東海道に沿った場所に最初に町場が発達し、飯倉町・芝金杉町・本芝町・上高輪町の諸町は早くも寛文二年(一六六二)に、住民行政は町奉行支配下に移管された。これに続き、元禄九年(一六九六)には一ツ木町が町方支配となっている。さらに、正徳三年(一七一三)には、「江戸廻りに有之百姓地町々支配之事、御代官当御役御用多有之処に、彼町々支配を兼候儀尤以大儀之事ニ候間」という主旨のもとに、江戸廻りの町屋が町奉行支配に移管された(『御触書寛保集成』)。この時、麻布町、桜田町、龍土町、今井町、白金台町、下高輪村町方分等が町方となった。また、港区周辺地域においても、道玄坂町、渋谷広尾町、宮益町、上大崎永峯町・六軒茶屋町、品川台町等が、同時に町方に編入されている。
 元文三年(一七三八)には、原宿村町方分として青山久保町、青山原宿町が町方支配となり、延享二~三年(一七四五~六)には、品川、目黒、渋谷方面などの港区周辺地域をも含めた港区地域内外の寺社門前が町奉行支配に移管された。さらに、港区地域内外の在・町混在状態は以後の時代の原型がほぼ固まるのである。
 このように在方から町奉行支配に移管された町屋を、町並地・百姓町屋あるいは、年貢町屋と呼んでいた。そこでは、住民生活の町奉行支配、地方(じかた)貢租諸役の代官支配という二元支配(両支配)が行なわれることになったのである。
 さて、江戸外縁部の在・町混在地域の在方的要素は、田畑等の農地、武家・寺社・町人の抱地・抱屋敷、町並地の三つに大きく分類できる。しかし、当時、この三つの要素の割合は、港区地域内でも、その地区によりさまざまであった。芝金杉・本芝・(麻布)桜田町・龍土町等は、大部分が町並地であったのにたいして、三田村などは、総高約二四四石が、町方分約九〇反、抱屋敷約五四反、田畑約一八一反に分かれており、田畑の比重の高い地区であった(ただし、三田村の一部は目黒区地域に属する)。また、麻布町は総反約三五六反が町方分約一三八反、抱屋敷約一五二反、田畑約四五反であり、抱屋敷の比重が高かった(以上の割合は『新編武蔵国風土記稿』による)。
【港区地域の農地】 第一の農地であるが、本巻付図(『文政十一年分間江戸大絵図』)を開いてみると、下高輪から今里村、白金村にかけての地帯には、かなりの農地が広がり、また、三田村や麻布町では武家地、町屋の裏々に畑地が殘され、西のほうには原宿村の田畑が入り込んでいる。これらの農地の大部分は、黒野土砂利まじり、あるいは、赤土まじりで、畑(陸田)として使われており、水田は、白金村の新堀川付近や三田村、今里村のごく一部および原宿村に作られていただけであった。
 この農地を耕作していた農民の実体は、意外に摑(つか)みにくいものであるが、『新編武蔵国風土記稿』は、町並地以外の場所で在方支配に服している住民の文政期の戸数を伝えている。それによると、その戸数は、麻布町在方分一七軒、三田村一〇軒、白金村六八軒、今里村三七軒、下高輪村一二二軒、原宿村(そのかなりの部分は港区地域外になるが)一一〇軒と数えられていた。これらの家の住人のなかに上述の農地で耕作を行なっていた者が含まれていたのであろう。また、この在方分戸数は、決して大きなものではなかったが、都市における異質の要素の混在という点では注目に価するものでもあった。
【抱屋敷・抱地】 第二の抱屋敷・抱地とは、大名・武士・寺社あるいは町人が百姓地を購入し私有地とした所であり、その土地には特別の場合以外は年貢をはじめとする地方諸役が賦課され、代官・地頭の支配下におかれていた、ただし、町並地が抱屋敷となっている場合には、町並抱屋敷と称して、住民は町奉行支配下に置かれ、地主は地方諸役を納めるほかに、積金・町入用も納めていた。しかし、町並抱屋敷は、港区地域においては、余り多くはなく、上高輪町にまとまって見られたのが目をひく程度であった。
 港区地域の抱屋敷・抱地は圧倒的に武家所有地である場合が多く、また、江戸の中心より離れるほど、総面積も個々の規模も大きかった(表47参照)。その規模は、一三町以上もある広大なものから、わずか数十坪のものまで多様であった。また、所有者の屋敷地に隣接して設けられることが多かったのも一つの特色であろう。
 

表47 抱屋敷・抱地

所有者武家所有寺社所有町人・百姓所有
調査時萬延元文政11萬延元文政11萬延元文政11萬延元文政11
町村名面積
(反)

面積
(反)

面積
(反)

面積
(反)

面積
(反)

面積
(反)

面積
(反)

面積
(反)

麻布町・麻布村

麻布町在方分

今井村(在方分)

谷町

桜田町在方分
龍土町在方分
飯倉町在方分

一ッ木町在方分
芝町
芝田町一丁目・本芝入会
金杉町
金杉町在方分

三川村・三田町
三田村

上高輪村・上高輪町

上高輪町在方分

高輪町
下高輪台町
下高輪村
白金村
白金台町
今里村
原宿村

下高輪村・白金村入会
白金村・今里村・白金台
町・上大崎村入会
白金村・今里村・白金台
町入会
白金村・今里村入会

白金村・北品川村入会
白金村・北品川村・上大
崎村入会
原宿村・千駄ヶ谷村入会


上渋谷村・穏田村・原宿
村入会
77.78
1.07


40.04

2.55
**1.12





3.57
5.20
0.85


22.26


2.71
**41.76


36.16

13.31


9.45
38.48

28.09
149.64

26.24

133.92
*17.72
53.77
9.51
*3.15
85.57
*1.0
**0.80
57.01
*20.67
17
1


9

1
1





1
1
1


9


1
8


3

4


2
6

2
1

1

10
2
4
1
1
2
1
1
1
1


103.79

40.45





13.80

27.23




*0.27

37.46



3.91



75.55



18.84


















18

9





9

1




1

3



2



11
14

9
8






4



























2.52


1.37




5.65
3.13

**4.76










2.05

























5


2




3
2

2










2










*47.87

*1.29


*1.69
*0.77

*13.60





*0.26


*16.86









2.52

*36.1


















25

4


3
2

7





12


16









1

1

































19.76





















2.06

























1





















1

















0.27





1.35







*0.64


1.89






























1













1


1




















77.78
*1.07


40.04

2.55
**1.12





3.57
5.20
0.85


44.54


4.08
**41.76


36.16
5.65
16.44

**4.76
11.97
38.48

28.09
149.64

26.24

133.92
*17.72
57.88
9.51
*3.15
85.57
*1.0
**0.80
57.01
*20.67
17
1


9

1
1





1
1
1


15


3
8


3
3
6

2
3
6

2
1

1

10
2
7
1
1
2
1
1
1
1


103.79
47.87
40.45
*1.29


*1.69
*0.77
14.07
*13.60
27.23



1.35
*0.53

37.46
*16.86


3.91
*0.64


76.64



18.84
*36.1

















18
25
9
4


3
2
10
7
1




4

3
16


2
1


12
14

9
8
1





4









(注) ①無印=抱屋敷、*=抱地、**=町並抱屋敷、総=町人総待ち。  ②萬延元年調査=「目黒筋抱屋敷地取調書」(鏑木家文書、『目黒区史資料編』所収)による。  ③文政11年調査=『新編武蔵国風土記稿』による。


 
 この抱屋敷にかかる年貢高は、概して高いものであったようである。港区地域に隣接していた下大崎村の嘉永三年の村方明細書上帳(『品川区史続資料編』(一)所収)によるならば、下大崎村の抱屋敷は一反に永二六七文五歩であり上畑はもちろんのこと町並屋敷より高いものであった。また、この村では、抱屋敷は宅地として「永」で課税基準が標示されたものと、畑高のうちに含めて石高で課税されたものとに分かれていた。畑高の場合には、たとえば反別三町九反九畝廿歩の抱屋敷に三九石八斗八升一合二勺七才の石高が付けられていた。これは反当約一石の石盛(石盛一〇)であり、この村の上田の石盛の倍近く高いものであった。
【抱屋敷の増大とその規制】 抱屋敷の増大にともなう江戸近郊の変化は幕府にとって、歓迎しがたいものであったようである。享保二年(一七一七)、幕府は「御鷹場之障」になるとの理由で抱屋敷の規制を行なった。規制の内容は、(一)新規の抱屋敷所持の禁止、(二)陪臣・町人・浪人の抱屋敷所持の禁止、(三)緊急必需の場合以外は既存の抱屋敷も、囲・家屋・庭園の竹木を取り払うことなどであった(『御触書寛保集成』)。さらに、寛延二年(一七四九)にも幕府は、(一)新規抱屋敷、(二)百姓所持の畑地を抱屋敷にすること、(三)武士から町人・寺社への抱屋敷の譲渡、(四)百姓から町人への抱屋敷の譲渡、町人から百姓への町並抱屋敷の譲渡、の諸項の禁止を申し渡している(『御触書宝暦集成』)。これらの禁令で注目すべきことは、抱屋敷と農地の関係である。享保二年の禁令では、抱屋敷内の耕作地および耕作人の家屋は取払いの対象から除外されていた。また、寛延二年の場合には、武士から百姓への抱屋敷の譲渡は「由緒無之候ても可相済候」と全面的に是認されていた。これらのことは、幕府の抱屋敷規制という政策の意図の一つが江戸近郊における百姓地の減少傾向にたいする規制であったことをうかがわせるのである。
【抱屋敷の実状】 さて、抱屋敷は、前述のとおり、港区地域内でも広大な場合がしばしばあり、もとより居住にのみに利用されていたわけではない。利用形態としては、庭園にしたり、屋敷林、雑木林等のまま抱え置いたりすると同時に、内部で耕作が行なわれる場合も少なくなかったようである。右に触れた享保二年の規制の場合に、抱屋敷内の百姓耕作地に特別の配慮を払っていることも、屋敷内農地の存在をうかがわせるものであろう。
 また、抱屋敷は拝領屋敷と異なり、元来、百姓地を売買契約に基づき購入したものであるので、所有権が規制の範囲内で再移動する場合も少なからずみられた。そのような場合のうち、百姓に再譲渡された所を、百姓戻地・百姓帰り地・武家屋敷帰畑等と呼んでいた。港区地域に隣接した北品川宿の弘化二年(一八四五)、「沿革御調ニ付品川領宿村書上控」)(『品川区史資料編』所収)には、戻地となり、弘化二年当時に百姓屋敷や畑地として利用されていた元抱屋敷の書上げが載せられている。このように抱屋敷が戻地となった時期は、北品川宿の場合では、十八世紀中が大部分で、なかでも規制の発令された享保~寛延期が多かったようである。この戻地・帰畑は、抱屋敷が事情によっては再び百姓所持の農地に戻ることを示しており、抱屋敷の在方分的な性格を物語るものでもあろう。
【町並地】 第三の町並地は、住民が町奉行支配に属し、分類のうえからは町方であるが、元来、百姓地が町場化した所であるがゆえに、年貢をはじめとする地方諸役を分担していた。この意味で町並地は半「在方分」的な場所であったといえるので、以下に概観してみよう。
 町並地を特色づける年貢は、港区地域の場合、町ごとで大きな相違はなかったようである。「文政町方書上」によるならば、町並地の石盛の平均は、芝金杉諸町一〇・九、本芝諸町一〇・五、伊皿子諸町一〇・〇、三田諸町一〇・五、下高輪諸町一〇・四、白金諸町一〇・〇であり、他の諸町も大きな違いは見られなかった。高いもので約一一、低いもので約一〇の石盛といえる。
 この石盛を港区周辺地域と比較してみると、たとえば、天保十四年(一八四三)、北品川宿の上田の石盛(一二)(「品川宿宿方明細書上帳」『品川区史資料編』)よりやや低く、また、宝暦十三年(一七六三)、中目黒村の上田の石盛(一〇)(「中目黒村村指出銘細帳」『目黒区史資料編』)よりやや高いものであったということになる。港区地域の近辺は、畑作中心地域であったが、そのなかで、町並地が上田並みの評価を受けていたことは、周辺農村に比較すれば、町並地が収益性の高い土地と評価されていたことになる。しかし、他方、古町に比較するならば、港区地域の町並地は、いわゆる江戸の「場末」町に当たるものであり、その地域は、公役銀などの町方の課税の規準では、上・中・下の三段階で概して、下に属するものであった。
【町並地の経済力】 町並地はまた、経済的能力においても古来の江戸市中古町よりやや脆弱な面があったようである。幕末、内外の政局が緊迫の度を加えていた安政元年(一八五四)五月に、幕府は江戸町人に御用金を賦課した。その時の記録である「用金上納帳」を整理して、場末町の経済力を以下に考えてみよう(表48・49参照)。
 

表48 御用金上納金額表

文化3文化10安政元
(両)
金額
口数口数口数
芝口一丁目
〃 西側
〃 東側
芝口新町
芝口二丁目
〃 三丁目
芝新銭座町
芝宇田川町
芝三島町
芝神明町
芝片門前二丁目
芝中門前一丁目
〃   二丁目
〃   三丁目
芝浜松町一丁目
〃   二丁目
〃   三丁目
〃   四丁目
芝新網町

2000


















1

















852
1050

100
200




35

50







2
2

1
2




1

1







900
550
50
350
680
50
100
50
150
790
130
100
670
80
50
180
100
130
70
1
4
1
2
6
1
1
1
3
7
1
2
3
1
1
2
2
1
1
芝金杉通三丁目
〃   四丁目
芝金杉同朋町
〃  片町
芝西応寺町
1000




1




400



300
1



2

100
50
100
1150

1
1
1
3
本芝二丁目
〃 四丁目
〃 入横町






50
50

1
1


100
50

1
1
芝田町三丁目
〃  四丁目
〃  五丁目
〃  六丁目
〃  七丁目
〃  八丁目
〃  九丁目
芝松本町一丁目
〃   二丁目
芝新網四代地
芝車町

1000

800
400
3000






1

1
2
1











299
50

10


1




2
1

1

120

120

1000

150
80
50
50
150
2

2

1

3
1
1
1
2
三田一丁目
〃 二丁目
〃 三丁目
三田同朋町
三田北代地町
兼房町
桜田善右衛門町
桜田久保町
〃 太左衛門町
〃 備前町
〃 鍛冶町


4000

200








2

1






350

250

100
400

50
300

100
3

1

1
2

1
1

1
180
40
150
80

500
50
150
550
50
50
3
1
2
2

2
1
1
2
1
1
芝伊皿子台町
二本榎広岳院門前





50

1
50
70
1
1
西久保新下谷町
〃 天徳寺門前
神谷町

200


1

250

160
1

1
25

150
1

2
飯倉一丁目
〃 二丁目
〃 三丁目
〃 四丁目
〃 六丁目











106




2



100
215
150
40
120
1
4
4
1
3
麻布陽泉寺門前
〃 湖雲寺門前
〃 今井谷町
〃 市兵衛町
〃 永坂町
〃 宮下町
〃 善福寺門前
  元町
〃 本村町
〃 田嶋町




























50









1

50
100
40
130
50
50
120


100
1
1
2
1
1
1
3


1
元赤坂町
赤坂表伝馬町一丁目
〃     三丁目
赤坂裏伝馬町二丁目
〃     三丁目
赤坂田町三丁目
 〃  四丁目
赤坂一ッ木町
同続元赤坂町代地
赤坂新町三丁目
 〃  五丁目

200










1










200


5


100

100


2


1


1

1

200
130
30
30
50
30
80
130
80
60
70
1
2
1
1
1
1
1
2
1
1
1
青山若松町401
元鮫河橋八軒町
 〃  谷町




50
50
1
1

三井文庫蔵「江戸商人名前カード」により作成。


 

表49 安政元年御用金上納金額集計表

A
戸数
B
上納額
C
口数
B/CB/AC/A


芝金杉
本 芝
上高輪町
伊皿子・二本榎
三 田
桜 田
西久保
飯 倉
麻 布
赤 坂
青 山
元鮫河橋

4,546
1,559
1,266
2,029
477
1,715
906
1,128
1,003
4,547
2,346
881
1,161

5,180
1,400
150
1,729
120
450
1,350
175
625
640
890
40
100

41
6
2
13
2
8
8
3
13
11
13
1
2

126.3
233.3
75.5
132.3
60.0
56.3
168.8
58.3
48.1
58.2
68.5
40.0
50.0

1.14
0.90
0.12
0.85
0.25
0.26
1.49
0.16
0.62
0.14
0.38
0.05
0.09

0.009
0.004
0.002
0.006
0.004
0.005
0.009
0.003
0.013
0.002
0.006
0.001
0.002

三井文庫蔵「江戸商人名前カード」より作成。


 
 港区地域内においては、最外縁部に属する下高輪、白金、原宿の諸町は、まったく御用金上納を行なっておらず、相応の経済力を備えた町人が居住していなかった。
【比較的富裕な東海道沿いの諸町】 それと対称的に、芝(金杉川以北の古町地区)・芝金杉・桜田・上高輪の、ほぼ東海道に沿った諸町は、上納者一人頭の平均上納額が一〇〇両以上と比較的高額で、しかも各ブロックごとの上納総額をそのブロックの総軒数で割ってみても、もっとも多額の上納をしているブロックである。つまり、これらの諸町は高額な上納金を納められる者が、比較的高い密度で居住していた地帯というわけである。なかでも金杉川以北の芝地区と桜田地区は、一軒割にした平均上納額が港区地域内では抜群に高く、また、総戸数に比して上納者の割合の高い地区である。これは町並地に比して、古町は概して富裕であったことを示しているといえよう。また、この東海道沿いの地区のうちには、駿河町三井越後屋の出店として有名であった芝口一丁目の松坂屋八助(上納額、三人で二七〇〇両)や、芝西応寺町の町医中世屋昌三郎(上納額一〇〇〇両)、芝田町七丁目の〝しう〟という者(上納額一〇〇〇両)のような富裕町人もいた。とくに金杉・上高輪の両地区では、右記の二人の千両上納者が同地区の平均上納額をいちじるしく引き上げていたのである。つまり、この両地区では、上納をできる富裕な町人の割合は、古町の芝・桜田両町より小さいが、なかには大きな経済力を持った町人がいたことを示している。
【本芝の町並地】 本芝地区の町並地は、上述した比較的富裕な地帯のなかにあって、上納者の平均上納額も他より低く、また、一戸当たりの上納額、総戸数にたいする上納者率も港区地域内でもっとも小さい地区の一つである。これは、比較的繁華になった町並のなかに中・小・零細町人の集住する地区があったことをうかがわせるものであろうか。
【東海道の裏道の町並地】 東海道の裏街道に当たる西久保~三田~伊皿子・二本榎地区は、いずれも東海道沿いに比較すれば、上納者の平均上納額も、総戸数にたいする上納者率も概して低く、表街道の町並との違いを示している。また、西久保地区は古町でありながら、この部類に属しており、考えるべき問題を含んでいるといえよう。
【飯倉地区】 しかし、飯倉地区は西久保と三田の間を繋ぐ地区でありながら、異質な傾向を示していた。上納者の平均上納額は低い地区の一つであるが、総戸数にたいする上納者の割合は抜群に大きかったのである。つまり、比較的低額の御用金なら上納できる町人が、高い密度で居住していた地区といえよう。
【赤坂地区】 厚木道の出口に当たる赤坂地区は、古町がかなりあった所であるが、東海道沿いに次ぐ富裕度を示しているといえよう。総戸数にたいする上納者の割合、平均上納額とも東海沿いと、その他の地区の中間である。
【麻布・青山地区】 西の方に広く散在する麻布地区と青山地区は、御用金を上納した場末町並地のなかでは、もっとも場末的な、富裕度の低い所であった。総戸数にたいする上納者の割合はもっとも低く、また、上納者の平均上納額も小さいほうといえよう。
 右に概観したように、町並地では、御用金を拠出できる町人の数は概して古町より少なく、また、個々の上納額も低額な場合が多かった。しかし、早く開けた東海道沿いの町並地には、少数ではあるが、巨額の上納を為し得る町人も居住していた。(文化三年の「御褒美被下候者共名前」も参考にするならば、三田地区も巨額上納者がいる地区にあわせて考えるべきであろう。)また、江戸外縁部へいくほど御用金拠出者数、拠出額ともに小さくなる傾向があり、下高輪・白金・原宿等に至れば上納者は皆無になっているのである。
【江戸の都市問題――場末町並地】 このように町並地は、一般的には経済力の脆弱な場末であった。そのために、十八世紀後半になると場末町並地は江戸の都市問題の病巢の一つになっていった。
 天明七年(一七八七)五月に起こった江戸の打毀しは、三日間にわたり、市中全域をほとんど無政府状態に陥れた激しいものと伝えられているが、この打毀しの蜂起地は、本所・深川・赤坂・芝・高輪といった場末町々であり、また、事件の処罰者も牛込・四谷・三田・芝などの場末町居住者が多かったという。これは、当時の場末の町々が問題ある地域であったことを端的に示す一事例といえよう。
【幕府の場末町対策】 天明の大打毀しの直後に老中筆頭となった松平定信の寛政の改革が、江戸の場末町対策を政策の一つとして取り上げたのも、このためである。幕府は寛政三年(一七九一)十二月、江戸の町法を改正し、町入用(町方の自治行政経費)を倹約し、その倹約分の七割を非常の備えのための囲籾(蓄米)および低利金融のための積金にすることを命じたのである。この七分積金の実施を命じた布告の第五項は、とくに場末町々に対する配慮を左記のように示している。
 
   一、場末町々之内ニ者、地主共手取金無之程成も候由、右躰之場所者素より積金之沙汰ニ者不及候、此度之町法改正ニ付、聊ニ而(て)も手取金相増候分者、為積金其七分通り差出候儀ニ而(て)、多少を可論筋ニ者(無之候)、積金無之程之町々者、常迚も難儀之事、火災其外ニ付而(て)も困窮猶以之儀ニ付(右町々えも行届候ため、旁御差加金も被成下候儀ニて候)、一躰積金之儀者、利安貸付等とも相成、右利分ヲ以積金無之町々も非常其外御手当者同様ニ可被下候間、左様ニ可存候、此度右躰永続之主法被仰出候者難有儀ニ而(て)、若惣町之内ニも身元相応ニ而(て)志有之、積金ニ加り度と存候者も有之候ハヽ勝手次第之事ニ候間其段可申出候(「高輪明鑑」慶応義塾大学蔵。( )内は『御触書天保集成』により補う。)
 
 場末町々は平常より困窮している場合が多いが、そのような町は積金を行なう必要はない。また、このような困窮している町々にも七分積金による窮民救済の政策が行き届くように、幕府は差加金(一万両)を支出して積金に加えてある。さらに、積金を利貸に運用した利分により、積金を行なえない町々の非常時等の手当をする。これが、およその主旨であろう。つまり、七分積金の制の立法意図の一つは、江戸諸町の積金と幕府の差加金により、経済力の弱い場末の諸町の生活を崩壊から守るところにあったとみてよいであろう。
【寛政の混浴禁止令】 この七分積金の布令に先行する寛政三年正月に出された混浴禁止の町触れもまた、幕府の場末町対策の一部であるとの左のような解釈が行なわれている(中井信彦『史学』四四―三「寛政の混浴禁止令をめぐって」)。
 当時、男女混浴は、場末の町々に多かった。それは場末の湯屋では、顧客総数が少なく、男湯・女湯の分焚をしたのでは採算がとれなかったからである。そして、この男女別浴を不可能にした顧客総数の問題は同時に、場末ではおのおのの湯屋に固定した顧客がつき、湯屋の経営が安定するような状態が達成されていなかったという不安定性の問題でもあった。つまり、男女混浴は、多くは町中の下層庶民の膨張部分の郊外への拡散により形成された場末町々の変動的な状態のなかで行なわれた便宜的方途であったのである。そして、それは場末町々に拡散してきた都市下層庶民の生活もまた未組織で不安定、便宜的なものであったことの一表現にほかならない。彼らは町中の下層庶民のように特定の顧客をもつ入込業者や親方職人のもとに組織化された日雇人夫・職人ではなく、また、特定の仲買商に掌握され、縄張りを分与されている行商人でもなかったのである。
 幕府は混浴禁止令に相前後して、江戸の十二の湯屋の組合を番組に組織することを認可する。その政策意図は、場末町々を、たとえば湯屋とその固定顧客との安定した関係に構造化し、町中と同様な原理のもとに掌握することを狙ったものとも考えられるのである。
 寛政三年の混浴禁止令は、以上のような性格をもったものと解釈されるのである。そして、この解釈をとおして、場末町の性格もまたうかがわれるであろう。