(二) 港区地域と周辺の関係

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【港区地域の主要な交通網】 江戸時代には、幹線だけでもほぼ三つの道筋が港区地域を通り周辺農村へと深く伸びていた。東の海沿いには東海道が南北に走り、品川の町村が続き、それと並行して三田南代地町から二本榎をぬけて東海道の旧道が上・下大崎村へと南下していた。また、南西方向には白金台町を通って下目黒町・中目黒町・目黒村方面へ相州道の往還があった。一方、西郊へは桜田門外から赤坂・青山を経て渋谷宮益町、道玄坂町を通り世田ケ谷へと厚木街道(相州厚木道、厚木大山道、大倉街道)が踏み固められていた。一方、芝地区は、江戸湾に西接してはいたが、芝からの海上交通路は、品川の伝馬保護のためもあり、いちじるしく規制されており、見るべきものはなかった。つまり、港区地域は、主に、遠く伸びる街道をはじめとするさまざまな陸上の路筋により周辺地域と多くの関係をもっていたのである。
【隣接地とのつながり】 しかし、ここで多少注意しておかなければならないのは、江戸時代後期になると、港区地域と、その西・南の隣接地との間に明確な地域性の相違があったわけではないという点である。文化四年~安政五年(一八〇七~一八五八)に編纂された『御府内場末[往還其外]沿革図書』(東京都公文書館蔵)を見るならば、これらの隣接地も下屋敷・抱屋敷と町並地と田畑からなる類似した状態が見出される。また、渋谷・目黒・品川等の周辺町並地も、(一)項でのべたとおり、港区地域内の多くの町並地とともに、正徳・延享の二度の町方編入により町奉行支配下に入った町々であった。
 つまり、港区内西・南外縁部と港区隣接地帯は、江戸時代後期には、同じく場末の境界であり、江戸から離れるに従って、次第に本来の農村的な姿が色濃くなっていったのである。したがって、港区地域と周辺との関係は、明確な都市と農村との関係ではなく、しばしば都市と場末との関係であり、場末のなかの異質の要素間の関係であり、また、場末と農村との関係であった。