品川宿助郷組合

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 近世の交通は寛永年間の参勤交替の制度の開始により大きな刺激を与えられ、さらに、その後の泰平の時代は、交通量の増大を必然的にもたらした。このために、宿駅常備の伝馬・人夫はしばしば不足をきたし、この不足人馬を周辺村落の賦役により補う助郷制度が元禄ごろまでに各駅に組織され、助郷村々は、ほぼ石高に応じて課役を負担したのである。
 品川宿助郷組合は、正徳六年(一七一六)には、荏原郡四九村と豊島郡一二村に定められたが(『新編武蔵国風土記稿』)、享保十年(一七二五)には、荏原郡四五村、豊島郡一二村の五七村、勤高一万七六六七石(「享保十年東海道品川助郷帳」『品川町史』所収)が二分され隔年に勤めることとなった。さらに、享保十六年には、定助郷で負担し切れない場合の補助をするものとして、当分助郷(加助郷)二〇村(豊島郡一〇村、橘樹郡一〇村)が定められた。
 その後、村々の状態を考慮し助郷を免除(差免)される村や、新たに申し付けられる村の移動があり、文久三年(一八六三)「東海道品川宿助郷村高帳」(『品川区史続資料編』(一))では、定助郷六〇村(豊島郡一五村、荏原郡四五村)、勤高一万七三三四石、加助郷一九村(豊島郡九村、橘樹郡一〇村)、勤高三〇三九石となっていた。このうち港区地域内では、表49に示したように定助郷約一九三〇石と三カ村による加助郷を分担していた。
 

表49 港区地域内における品川宿助郷勤高

定  助  郷
村  名勤高(石)






下高輪町43
下高輪村南組103
三田村225
今里村327
白金村340
白金台町98
田町(上高輪町)179






芝町61
飯倉町74
麻布町219
金杉町58
北日ヶ窪町31
桜田町64
龍土町25
今井町65
 加  助  郷
村  名勤高(石)


市兵衛町6
谷町11
原宿村262

文久3年「東海道品川宿助郷村高帳」(『品川区史続資料編』1)より作成。


 
 しかし、港区地域の町場化、武家屋敷・抱屋敷の増大とともに、人馬を提供する「正人馬勤」を行ないがたくなり、時には他の助郷村々との間に問題が起こったようである。天保二年(一八三一)三月、品川宿宿方より提出された願書(「品川宿助郷村の人馬雇替銭支払延滞につき宿方の願書」『品川町史上巻』・『芝区誌』・旧『港区史』・『品川区史資料編』所収)は、その間の事情をうかがわせている。
【品川宿助郷村の「願書」】 この願書によると、品川宿定助郷のうち港区地域内の一五町村と下豊沢町(渋谷広尾町)、下渋谷町(渋谷広尾町)、同村野崎組の一八町村は町並・屋敷が増大し正人馬勤が困難であるために代銭納(雇替)を行なっていた。しかし、その代銭納金も滞りがちであるので、助郷惣代が、これらの町村より委託金(備金)を受取り、そのなかから勘定を済ませるという案が出された。対談の結果、今里村他一一村は出金をしたが、下高輪町村・三田村・芝町・飯倉町・麻布町は「再応出会申達候得共一切(宿方へ)不罷越」という状態で対談に応ぜず出金もしなかった。このために、ほかの一二町村も出金をしない傾向が生まれ、宿方・助郷一統は難渋することになった。そこで宿方は、今里村等には対談どおり出金をするように、また、下高輪町外五町村には百石につき一〇両の備金を差し出すように取り締ってほしいと願い出たのである。
【「願書」に見る問題点】 残念ながら、この願書の結果がどのようなものとなったかはわからないが、二、三の興味ある問題が指摘できる。第一には、代銭納の一八町村の決め方である。願書では、町並化・屋敷地化をその理由にあげているが、この一八町村のなかには、書類のうえでは、在方分家居が十分にある村も含まれている。たとえば、『新編武蔵国風土記稿』では、白金村・今里村・下高輪村の在方分戸数として、おのおのに六八戸、三七戸、一二二戸を数えている。それにたいして正人馬を勤めていた上大崎村(勤高四二九石)、下大崎村(同三一二石)はおのおの二一戸、三三戸でこれを下まわっている。つまり、伝馬はともかくとして人足を勤めるべき在方人口は、数字のうえでは港区内三村のほうが多いはずである。それにもかかわらず、白金・今里・下高輪三村も代銭納の町村に含まれたということは、これらの三村の在方分家屋に住む者の生活そのものが、実質的には正人馬を勤めがたい状態になっていたことを物語るものであろう。それはまた、天保期には、町並地のような町奉行支配地以外の在方分に、町奉行支配に服さない非農民的住民が生まれていたこともうかがわせるものでもあろう。
 第二には、これらの諸町村の悪い納金状態について、二つの推測が可能にされよう。一つには、この一八町村は組織的に助郷雇揚銭を徴収することに関して自治的能力を欠如していたのではないか。第二には、この一八町村は、助郷組合の自治的支配力で掌握しきれない地域となっており、それゆえにこそ、「再応出会申達候得共一切不罷越」のように、組合の決定を無視する態度をとることが可能であったのではないか。
 これらの推測や疑問を簡単に解くことは難しいが、ともあれ、港区地域内の町村は、助郷組合村々の側からみても、未組織で経済力の弱い「場末」の問題ある地域であったのであろう。