目黒筋御鷹場組合

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 放鷹(鷹狩・鷹野)は講武・娯楽とともに、勧農や民情視察等の政治的目的をも兼ねたもので、領主の重要な行事であった。家康以来の初期の徳川将軍も好んで放鷹を行なったために、鷹匠や鳥見の職制をはじめとする放鷹制度は、江戸幕府のもとでいちじるしく整備され、多くの鷹場が設定された。
 その後、「生類憐みの令」が出された元禄期には一時、放鷹が廃止されたが、享保期には再び復活し、それとともに鷹場の制度に新たな整備強化が加えられた。江戸周辺においては、江戸から五里以内の鷹場が、葛西筋・岩淵筋・戸田筋・中野筋・目黒筋・品川筋の六筋に分けて管理され、この六筋の外側に御三家の鷹場が与えられた。
 鷹場は禁猟区とされ、管理者の鳥見や代官には、密猟者・不審人物の身元調査・補縄の権限が与えられ、また、家屋の新改築を監視し制限する任務が与えられた。さらに、鷹場の村々は筋(地域)ごとに鷹場組合を結成させられて、課役を連帯負担するとともに、鷹場禁令等の布令の伝達のための組織としても機能していた。このために、鷹場の設定は、天領・私領・寺社領が錯綜していた江戸近郊の支配の弱さを一円的な管理のもとに補強する政治的意味をももつものでもあった。
 港区地域内の町並地および在方分は「江戸廻り六筋御鷹場絵図」(『目黒区史』所収)によれば、すべて目黒筋(一一八町村)の鷹場に属し、上目黒村御用屋敷の鳥見役所の管轄下におかれていた。この目黒筋御鷹場組合を通じて、さまざまな布令が伝達され、調査が実行されたのである。たとえば、万延元年(一八六〇)には、目黒筋町村の抱屋敷の調査が行なわれているが(「目黒筋抱屋敷地取調書」『目黒区史資料編』所収)、このことは鷹場組合が、港区地域内町村において、幕末に至っても機能していたことを物語っている。