改革組合

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【改革組合村】 江戸時代後期になると、関東地方では、一般に農村の分解・変質が進み、博徒の横行や、一揆・徒党・打毀しが起こるなど、治安が乱れがちであった。しかし、関東地方は天領・旗本領・大名領・寺社領が細かく分散し、支配権が錯綜していたために、治安維持機構はまったく不十分なものしかなかったのである。
 そこで、幕府は文化二年(一八〇五)に、関東取締出役を設置し、関東一円を巡視させ、支配権に関係なく治安維持の任に当たらせた。そして、さらに文政十年(一八二七)には、関東の宿・町・村に地域ごとに組合を結成するように命じた。この組合が〝改革組合村〟と呼ばれるものであり、幕府は、この組合村の組織をとおして治安維持を始めとする諸種の法令・取締の履行を命じ、また、そのための諸経費を村村の石高に比例して負担させた。
 このうち、港区地域では、今里・白金・三田・下高輪の四町村が、大森を中心とする大森寄場組合三七村のうちに属し、また原宿村は、下北沢寄場組合二六村の一村であった。一方、目黒方面には、中目黒寄場組合二五村が隣接していた。
 しかし、港区地域内の町村の場合は、両支配地なども含まれていたために、改革組合への所属の仕方も単純ではなかった。たとえば、大森寄場組合の慶応二年(一八六六)「当寄場組合一村限村高家数人別取調書上調」(『品川区史続資料編』(一))によるならば、「三田町」は左のように記載されている。
 
  一、高九拾五石八斗三合三勺 今川要作御代官所
  家数拾三軒           同州同郡
                   三田町
   人数 男 四拾弐人
      女 四拾三人
 
  外 高六十三石二斗四升四合三勺 武家寺院并
                  町人抱屋敷之分
 
    高七拾壱石壱斗八升三合壱勺
      家数千百拾軒      御代官
                   今川要作
      但人別ハ町方支配ニ御座候      両支配所
                   町奉行所
 
 この書上のうち「外」として書かれた武家寺院ならびに町人抱屋敷と両支配の町並地は、他の資料(大石慎三郎「武蔵国組合村構成について」『学習院大学経済論集』四一一)の数字と比較するならば、改革組合村には所属していなかったようである。つまり、改革組合村に所属したのは、町並地、抱屋敷を除外した〝純粋な在方分〟のみであったことになる。この町並地の除外は、町奉行所と改革組合(関東取締出役)とで治安維持等の任にあたる地域・地区を分担するという基本的原則があったことをうかがわせる。しかし、その一方、純粋な在方分があっても組合村に所属していない麻布町の例もあり、場末の境界――港区地域における改革組合への所属はかなり複雑なものであったともいえるのである。