【三田用水】 文政年間に至ってもなお、港区地域内に農地が存在していたことは、(一)項で述べたが、その多くは、三田用水を灌漑に利用したものであった。
三田用水は、元来は寛文年間に上水として造られたものであり、玉川上水を下北沢村で分流し、三田・芝の地域に引水したものであった。しかし、享保七年(一七二二)に神田・玉川両上水以外の江戸の上水道はすべて廃止されたために、三田上水の余流を耕作に利用していた村々は、たちどころに困窮に陥り、三田上水の旧渠を用水として用いることを願い出たのである。願は享保九年に裁許され、以後三田用水として利用されることになったという(『新編武蔵国風土記稿』)。
三田用水の水路は、上流より下北沢村・代々木村・中渋谷村・三田村・上目黒村・中目黒村・白金村・大崎村・北品川宿を堀割で進み、目黒川に流入していた。そして、この用水管理は、上目黒村・同村上知村・中目黒村・下目黒村・中渋谷村・下渋谷村・白金村・今里村・三田村・代田村・上大崎村・下大崎村・谷山村・北品川宿の御料・私領・寺領にまたがる三田用水十四カ村組合により行なわれていたのである(『上水記』東京水道局蔵)。
しかし、三田用水は、玉川上水からの分流であったために、上水不足の時には、しばしば流水量を制限され、用水としては不安定なものでもあった。江戸近郊用水の特殊な性格を示す一例であったといえるであろう。