このために、港区周辺地域の農村も蔬菜生産に従事し、生産物を江戸や品川の町場へ売り出していた、たとえば、港区周辺地域の村明細帳のたぐいは表50に示すような販売先を報告しているのである。これらの村明細帳で、江戸と記されている売却先が、それぞれ江戸のどの地区であったかは不明だが、最後の下大崎村の例から考えても、江戸の中心地ではなく、江戸のなかでも港区内外周辺のような町方の「近き町場」への販売が多かったであろう。
表50 前栽物売却先
年 時 | 村 名 | 売却先 |
宝暦13年 | 中目黒村 | 渋谷・江戸 |
寛政11年 | 下蛇窪村(品川領) | 江戸・品川宿 |
文政7年 | 〃 | 江戸 |
天保14年 | 品川宿 | 品川宿・江戸 |
弘化2年 | 下蛇窪村 | 江戸 |
嘉永3年 | 下大崎村 | 近き町場 |
『品川区史続資料編』『目黒区史資料編』所収の村明細帳より作成。
こうした村方からの前栽販売の活発化に伴い、天保三年(一八三二)には前栽立売りをめぐる事件が起きた。史料は以下のように事の起こりを語っている。
一、青山百人町通り并同所教学院門前、前栽物立売仕来り候処追々増長いたし、青山久保町、渋谷道玄坂町、同広尾町、品川台町、麻布日ケ窪、同所六本木、永峯町、高輪台町、都合八ケ所、問屋渡世ニ差障り相成□□年行事品川台町家江源次郎、同伊之助、年行事榊原主計守様御番所江御訴訟仕候ニ付、御糺之上其向々江御達し相成厳敷御取払被仰付、然ル処村中□□□前文之通り旧来仕来り候間御差留相成候而(て)ハ、一統難義至極仕候ニ付、其段去ル辰九月中明楽飛騨守様御奉行所より惣代ヲ以御愁訴奉申上候所、御含味中取扱人立入双方江及掛合、今般熟談之上議定為取替(「森家文書」『目黒区史資料編』所収)
【青物問屋と立売りの対立】 天保ごろには、村方より来て、問屋をとおさずに、青山百人町通りや、青山教学院門前で、立売りと称して前栽物を売る者が増大していた。このために商売に影響を受けた港区地域内外の八カ所の問屋が御番所へ出訴し、その結果、立売りは取払いを命ぜられたのである。しかし、立売りを差留られ難儀に陥った村方は、奉行所へ愁訴し、両者は対立することとなったが、取扱人が間に立ち、談合により議定を取り結ぶことになったというものである。
奉行所へ出訴した村々のうち、代々木村、上渋谷村、上豊沢村、中渋谷村は条件に不納得で議定には応じなかったが、残る村々との間には一応の妥協が成立することになった。その議定内容は、(一)以後、問屋方で梅窓院地内を借受けて、そこで前栽の立売りをすることを許す。(二)瓜・茄子・唐茄子の三品は、「算売」の間は問屋が買い取り、「見積り売」になったならば立売りを許す。(三)荷物壱荷に付、銭一六文ずつの口銭を立売人から問屋方へ支払う、というものであった。
この一件の基本的特色が、港区地域内外の既存の青物問屋仲間と村方の者との間の野菜類の流通をめぐる対立であったことは、改めていうまでもない。むしろ、ここでさらに注目すべき問題は、問屋と対立した村方の立売人たちの実体であろう。注目すべきことには、右の一件で問屋と対立した村方の中心は、実はすべて港区地域に外接するような村々であり、それより遠方の村ではなかったのである。このことは、青山の前栽立売りの場合には、比較的遠方の村方から直接に販売に参集することは少なかったことをうかがわせるといえよう。
さらにまた、村方から立売りに参集してきた者達のすべてが、果たして純粋な農民と性格づけられるかという問題がある。たとえば、宝暦十三年(一七六三)中目黒村「村指出銘細帳」(『目黒区史資料編』)によるならば、中目黒村の町方の家持・店借あわせて三四人であったが、そのなかに六人もの青物売りがいた。これらの青物売りは、店を構えた者ではなく、行商人の類であったようであるが、青山に参集し立売りをしていた者のうちには、この種の近在の行商人がかなり含まれていたと考えるべきであろう。彼らは、自村の近隣や、江戸からより遠い村落から運び込まれた野菜類を買い受け、たとえば、青山などに持参して立売りでさばく場合があったと思われるのである。
つまり、右の一件は、近隣野菜類を荷受けしていた場末一帯の内部での旧来の問屋と、零細な小商人との対立の面からも考えるべきであり、港区地域の置かれた場末の複雑さを示すものでもあろう。
【炭薪問屋・炭薪仲買】 青物問屋と同様に、江戸近郊周辺地域からの入荷が大きな意味をもっていたものとして、炭薪問屋・炭薪仲買があった。炭薪問屋はしばしば、茶・荒物・干魚などをも取扱い、また、炭薪仲買は、青物問屋を兼業する場合があった。いま、ここで青物問屋の立地を考える参考として、この炭薪問屋・仲買の分布を表51により示しておこう。密度濃く分布していた地区は、炭薪問屋では、青山、下高輪、伊皿子・二本榎等であり、また、炭薪仲買では、白金、伊皿子・二本榎、麻布、三田、鮫河橋・三軒屋町・権田原等であり、いずれも郊外に近い外縁地帯であった。それにたいして分布密度の薄い地区のなかには、どちらの場合も、芝、桜田、西久保、飯倉などの古町地区が含まれていた。つまり、近郊周辺地域からの集荷が大きな意味をもつ、これらの業種は幕末には港区内の近郊外縁地帯に立地する傾向が強くなっていたのである。
表51 嘉永4年~明治3年主要問屋延軒数表
地 区 名 | A 戸数 | 地廻 米穀問屋 | 脇店八ヵ所 組米屋 | 舂米屋 | 炭薪問屋 | 炭薪仲買 | |||||
a 延軒数 | a/A ×100 | b 延軒数 | b/A ×100 | c 延軒数 | c/A ×100 | d 延軒数 | d/A ×100 | e 延軒数 | e/A ×100 | ||
白 金 | 569 | 2.4 | 0.4 | 2.4 | 0.4 | 9.1 | 1.6 | 1.8 | 0.3 | 27.3 | 4.8 |
西久保 | 901 | 0.7 | 0.1 | 0.7 | 0.1 | 14.9 | 1.7 | 0.8 | 0.1 | 12.7 | 1.4 |
三 田 | 1,595 | 4.0 | 0.3 | 0 | 0 | 28.1 | 1.8 | 2.6 | 0.2 | 42.5 | 2.7 |
飯 倉 | 1,003 | 2.9 | 0.3 | 0 | 0 | 15.3 | 1.5 | 0 | 0 | 13.6 | 1.4 |
鮫河橋 権田原 三軒屋町 | 1,161 | 0 | 0 | 0 | 0 | 6.7 | 0.6 | 0.8 | 0.1 | 31.4 | 2.7 |
青 山 | 1,027 | 0 | 0 | 0 | 0 | 9.8 | 1.0 | 7.8 | 0.8 | 20.2 | 2.0 |
赤 坂 | 2,346 | 0 | 0 | 0 | 0 | 36.3 | 1.5 | 1.8 | 0.1 | 48.6 | 2.1 |
麻 布 | 4,547 | 2.7 | 0.1 | 2.0 | (0.04) | 70.3 | 1.5 | 7.6 | 0.2 | 145.3 | 3.2 |
下高輪 | 497 | 2.0 | 0.4 | 2.0 | 0.4 | 8.0 | 1.6 | 2.6 | 0.5 | 10.1 | 2.0 |
芝 | 4,763 | 17.8 | 0.4 | 17.5 | 0.4 | 75.3 | 1.6 | 4.0 | 0.1 | 72.6 | 1.5 |
芝金杉 | 1,559 | 3.0 | 0.2 | 0.3 | (0.02) | 15.1 | 1.0 | 0 | 0 | 34.3 | 2.2 |
本 芝 | 1,561 | 1.4 | 0.1 | 1.0 | 0.1 | 23.7 | 1.5 | 0.9 | 0.1 | 20.3 | 1.3 |
上高輪 | 1,734 | 11.5 | 0.7 | 10.7 | 0.6 | 26.3 | 1.5 | 5.1 | 0.3 | 43.6 | 2.5 |
桜 田 | 906 | 4.8 | 0.5 | 2.8 | 0.3 | 13.0 | 1.4 | 0.6 | 0.1 | 12.6 | 1.4 |
芝伊皿子・二本榎 | 477 | 1.9 | 0.4 | 0 | 0 | 11.7 | 2.5 | 1.8 | 0.4 | 17.4 | 3.6 |
(注) 延軒数は嘉永4年~明治3年の20年間のうち全期間開業していれば1軒,20年間のうち10年間だけ開業していたならば0.5軒,5年間ならば0.25軒,2年間ならば0.1軒のように数え,それを地区ごとに総計して算出した軒数。
三井文庫蔵「江戸商人名前カード」より作成。