穀物取引をめぐる問題

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 江戸の穀物取引は、複雑ではあるが、もっとも整備された株仲間制度により管理されていたものの一つであった。とくに享保期以降においては、武家方払米を取扱う用達商人・札差し、上方および東海諸国から舶送された商人米を扱う下り米問屋、関東周辺および東北地方の商人米を扱う関東米穀三組問屋・地廻り米穀問屋に分掌され、さらに、その下に仲買商や仲買と小売を兼ねる脇店八カ所組米屋がいた。これらの問屋・仲買をとおした米穀が小売商および精米・小売を兼ねる舂米屋に卸されたのである。
【米穀流通組織】 このうち、下り米問屋や関東米穀三組問屋は日本橋周辺に集中していたので、港区地域においては皆無であったが、表51に集計したように地廻り米穀問屋、脇店八カ所組米屋は港区地域内においても分布していた。地廻り米穀問屋は、上高輪、桜田、白金、下高輪、芝、伊皿子・二本榎などに、また、脇店八カ所組米屋は上高輪、白金、下高輪、芝、桜田などに比較的多く見られた。しかし、地廻り米穀問屋は、他の米問屋に比較すれば中小規模の問屋が多く、また、しばしば脇店八カ所組米屋や舂米屋を兼業する場合があった。また、舂米屋は、港区地域内の全地区に分布していたが(表51参照)、米穀の供給事情によっては、在方との直取引を密かに行なう場合もあったようであり、江戸場末町々の穀物取引を特色づけるものでもあった。
 さて、港区地域に存在していた以上のような米穀流通組織は、近世中期ごろにはすでに周辺地域との関係をかなり深め、米価等の経済事情の変動にともない、諸種の規制を無視して独自の集荷力を発揮するようになっていった。
【幕府の米穀流通に対する規制】 幕府は享保期(一七一六~)以来、基本的には問屋をとおさない米穀の集荷を禁じていた。それは、なによりも米価を維持し、幕府・武家の主要財源を確保するためであった。しかし、こうした幕府の規制にもかかわらず問屋をとおさない直売買は跡を絶たず、しばしば禁令が繰り返されていた。
 下り米に関しては、上方筋より江戸へ着いた米が「問屋共外脇々ニて」直買されていることに対する禁令が享保十五年(一七三〇)に出されている(『御触書寛保集成』)。そしてこれと同趣旨の触は元文元年(『御触書寛保集成』)、延享四年(一七四七)、宝暦五年(一七五五)(以上『御触書宝暦集成』)にも繰り返し出されている。
 また、享保二十年には、下り米に限らず、脇々の米屋へ米を持込み、販売することにたいして「脇々之相対を以猥相払候ては、米直段障候間、自今河岸八町之者え売渡候様可致候」(『御触書寛保集成』)のような禁令を行なっている。
【白米の江戸送り】 精米済み白米の江戸への廻送も、問屋による統制を乱す一因となっていたようである。享保十六年には、市中の舂米屋を困窮させ、かつ米の価を下げるものとして、白米の江戸への廻送を奥州・関八州の御料・私領・寺社領に対して禁じている。また、享保二十年にも所々在々より江戸の米屋への、白米の出荷を禁じている(以上『御触書寛保集成』)。さらに降って文化二年(一八〇五)から三年にかけても、江戸近在で精米された白米が江戸へ搬入され、素人が荷受している事実があると告発し、それを禁じている(『御触書天保集成』)。
【舂米屋による直荷受】 舂米屋も法網をくぐる集荷を行なうものであった。延享元年(一七四四)には「近年舂屋共新規ニ多く出来、縁々を以近在より商米引請、玄米相場より格別下直ニ致商売、売崩候ニ付」との理由で、舂米屋に組合結成を申付、近在より米の直荷引請をすることを禁止している(『御触書宝暦集成』)。
 以上のごとく繰返された禁令は、幕府の基本政策を示すとともに、それにもかかわらず問屋を無視した米穀流通路が存在していたことを物語るものにほかならない。そして、幕府当局もまた、江戸米価高騰の折には、この非公認の集荷力を利用せざるを得ない場合が、時には出現したのである。
 打ち続く凶作に米価が高騰し、江戸市中に不穏な空気が流れ始めた天明六年(一七八六)には、米価が低下するまで「問屋、仲買に不限、素人ニても売買勝手次第ニ可致候」(『御触書天明集成』)という布令を、幕府は町奉行をとおして触れているのである。このような布令はしばしばみられたものであり、たとえば、天保大饑饉中にも「米穀融通のためニ候間在々ニ而所持之米穀江戸表江売掛候もの共ハ追而及沙汰候迄末々米穀ハ勿論雑穀等迄、江戸内江積送り問屋仲買ニ不限、素人江も勝手次第売捌可申候」(「文政六~安政五年鏑木家由緒書」『目黒区史資料編』所収)のような形で出されている。つまり、江戸米価の高騰時には、幕府は米価政策として、脇々の米屋での相対売買や、在々からの米穀の勝手売買を許可したのである。
 このように、幕府の緊急時の米価政策に助けられたこともあり、在々と脇々の米屋等との直取引は、幕府の禁令にもかかわらず平常時にも存在しつづけていたと思われる。そして、港区地域内外周辺のように、多くの舂米屋が広範囲に分布しており、しかも周辺農村に隣接していた場末の境界は、しばしば、米穀直取引等の問題の舞台となったのである。
【地廻米問屋を通さない在方米直売】 穀物取引をめぐる問題のうち、もっとも典型的な例は、港区地域の地廻米問屋を無視して、周辺地域の米商売人たちが在方から直買する場合であった。たとえば、米価が高騰していた文政十二~十三年には、品川宿、大井村、目黒・渋谷辺の米商売人たちが「米穀在方より船積、岡附共、勝手次第直々引請」という挙に出ていた。このために、出買を禁止されていた最寄の問屋たちは入荷がなく迷惑したので、それらの米商売人たちに懸合いを行なった。しかし、米商売人側は「御代官御支配所にては在方荷物直々引受候共不苦由」を申し立て、直取引をやめなかったので、芝金杉同朋町の地廻り米問屋行事代理より奉行所へ出訴したのである。この訴訟は、結局、在方米直買をしていた者たちのうち、品川歩行新宿と中渋谷村の者を一名ずつ米問屋組合に加入させ、残りの者には在方米直買を禁止することで落着したが、町村入会の場所での仲間規制の難しさの一端を示しているものといえよう(「文政十三年米穀直買出入につき済口証文」『芝区誌』・『品川区史資料編』所収による)。
 右の例では、在方米直買者たちは、代官支配地では直荷引請が許されるということを主張していたが、このように場末の支配の錯綜が穀物流通の問題を生む例はほかにもあった。天保大饑饉中の天保八年(一八三七)には、品川宿内の舂米屋が入荷がなく、従来の小売米価を維持できなくなり、代官所に払米を願い出た例がある。願書によると、品川宿舂米屋は「宿内舂米屋共儀者、御府内同渡世人共同様地廻り米問屋共より買入候外、在方引合等一切不在渡世罷在候」とあるように直買をしていなかった。ところが、御府内舂米屋へは、窮境にたいして御蔵から御払米が行なわれ、彼らは米価を維持できていた。このため、町方支配地(御府内)が入り交っていた品川宿では、町方支配地の舂米屋は御払米を受け、他の品川宿代官支配地の舂米屋は御払米を受けられないという事情が出てきた。それゆえに、宿方の舂米屋は代官所に御払米を願い出て、幕府の浦賀御米蔵から払米を受けることになったのである(「品川宿御払米一件」『品川区史資料編』所収)。
【水車一件】 このような穀物取引をめぐる諸事件のうちで、次に示す「水車一件」は、場末の複雑さを示すよい例である。この資料は『新修渋谷区史・上』に所収されているものであるが、事件の概略を以下にみてみよう。
 事件は、天保三年(一八三二)十月から天保四年二月にかけて、港区地域内の大道舂米屋が、港区周辺地域の水車稼人のもとから港区地域内の舂米屋へ発送された白米を数回にわたり途中で押収したことから始まった。押収の理由は、禁止されていた在方白米の江戸への無許可搬入であった。
 この一連の押収事件にたいして、当然のことながら、水車稼人と舂米屋は反論し、押収された白米は在方白米ではなくて、舂米屋より水車稼人に精白を依頼した米であることを述べ、町奉行御番所において大道舂米屋と対決することとなった。この訴訟の両当事者を見てみると以下のごときものであった。まず、白米押収人(原告)は大道舂米五番組麻布本村町弥七・儀八、同三番組赤坂新町五丁目喜兵衛、同七番組芝金杉同朋町小七、同三番組赤坂新町三丁目彦助、同十五番組青山御掃除町清兵衛、同赤坂田町一丁目弁七の七人で、すべて港区地域内居住者であった。一方、この七人に告訴された被告は、水車稼人と水車稼人に精米を依頼した舂米屋であった。この両業者のうち、水車稼人は下渋谷村米吉・佐兵衛、上渋谷村忠左衛門、下大崎村重蔵・十蔵であり、港区周辺農村の者たちであった。また、舂米屋は、十番組麻布龍土六本木町清右衛門、九番組三田一丁目七兵衛、十五番組赤坂裏伝馬町二丁目幸八、六番組松村町与左衛門、九番組麻布谷町代地定七、同組三田一丁目広右衛門、同組芝六軒町弥助であり、松村町与左衛門以外はすべて港区地域居住者であった。
【舂米屋と大道米舂の対立】 ここに、大道米舂と舂米屋の二種の精白業者が相対する立場で登場してくるが、一般に言う舂米屋にたいして、大道米舂とは、臼杵をたずさえ行商人のように顧客を捜して移動したり、資力のある舂米屋の下請をする職人であった。それにたいして、舂米屋は、店を構え、また時には「御舂入」と称して大名・旗本の大口米も精米する者であり、資力の面でも取扱い商品量でも大道米舂を上回っていた。
 ところが、港区地域内の舂米屋のうち、取扱商品量が「御舂入」のためなどで増大してきた者たちは、港区周辺地域で水車を所有していた農民に精白を依頼し、その機械力により業務の拡大を維持していたのである。そのために、一日一臼、二石一斗の精白をして歩く大道舂米屋たちの仕事はしばしば減少しがちであった。このような港区地域内における比較的零細な大道米舂と舂米屋の精米業市場をめぐる対立が事件の根底にあったのである。
 しかし、さらに注目すべきことは、大道米舂側からの告訴理由である。その告訴理由は、舂米屋は水車稼に精白を依頼していたが、両者は共謀してこの米に、在方白米を混入させて府内に持ち込んでいるというものであった。この告訴理由は、前述した延享元年の御触書の禁令と考え合わせるならば、舂米屋が在方白米を直荷受していたことが珍しいことではなかったことをうかがわせるものであろう。
 事件は天保六年(一八三五)三月、町奉行所の指導のもとに、両者の間に示談の成立をみて、一応落着している。その際に水車稼人側から出された一札は以下のようなものであった。
 
   為取替申一札之事
  一、御府内舂米屋より送来候玄米舂立之儀者古来より仕来候儀、右白米差送り候途中ニ而其組行事衆取押在方白米ニ紛敷段申立、去ル辰年中榊原主計頭様御番所江御訴被成候ニ付、追々御吟味ニ相成候処在方白米与者事替候儀相分り、猶又於御白州度々厚御利解被仰渡候ニ付、双方名主衆中立合之上取扱ヲ以、我等同渡世最寄八軒ニ而(て)一ケ年ニ舂高凡壱万八千石程舂立候趣御番所様江も申上置候得共、水車之儀者水旱之患も有之候得者、舂高増減之無差別、舂米屋下舂之外素人相対舂之儀者決而(て)相舂申間敷旨和談致候、依之其御仲間ニ而(て)被相勤候御舂屋直役御用人足弐千人為助合与此価一ケ年ニ金弐拾弐両宛、年々水車八人ニ而(て)割合差出可申趣以及熟談候ニ付、右出銀之儀者月々ニ割付ケ壱ケ月ニ銀百拾匁宛毎月晦日限組々行事中より印紙取之、無滞相渡可申候、尤舂米屋江白米相送り候節、為目印舂米屋より被相渡候判取上ハ覆焼印之儀者直役行事双方申合紛敷無之様規定相極候上者聊紛敷取計致間敷候、為後日取替一札、仍如件(加藤一郎氏所蔵文書「水車一件」『新修渋谷区史』所収)。
 
 つまり、水車稼人側は、大道米舂仲間が一種の運上として幕府の蔵米を舂(つ)く人足を差し出していた「御舂屋直役御用」を援助するとの理由で、一カ年に二二両ずつ大道米舂仲間に差し出すこと、また、舂米屋より精白依頼された米には、目印をつけて在方白米と明確な区別ができるようにすること、以上の二条件を了承し、示談が成立したのである。
 
 以上のように、港区地域をめぐる穀物取引は、江戸時代後期には、かなり複雑な状況を形成していた。主に港区地域内にあった地廻り米穀問屋、港区周辺地域に立地し、在方米の直荷受を行ない、時には地廻り米穀問屋組合に編入されていくような米商売人たち、在方白米直買を行なう可能性のある比較的資力豊かな舂米屋、また、その舂米屋にたいして、旧来の仲間規定をもって自らの精米業市場を確保しようとする比較的零細な大道米舂たち、さらに府内舂米屋と府外舂米屋との間の条件の違い、町村入会における支配の相違、これらの諸要素が、港区地域内外周辺においては錯綜していたのである。そのために、米価の騰落などの経済事情の変動に応じて、これらの者たちの利害がさまざまな形で変化し、それが取引形態を変えていく原動力となった。
 このような地域が港区およびその周辺地域のいわゆる場末の境界であったのである。