(4) 真福寺(愛宕一丁目三―八)

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【オランダ領事クルチウス】 真福寺は真言宗の寺院で、徳川家康の無病息災を祈願する祈願所として格式を保ってきた。幕末には、日本との修好通商条約の締結を目的として来日したオランダ・ロシア・フランスの使節の宿泊所として利用された。
 安政五年(一八五八)一月二十六日、長崎から船で東上したオランダ理事官クルチウスは三月十日品川沖に到着、真福寺に入った。クルチウス一行は、この真福寺を宿として将軍家定に謁見したり、アメリカ総領事を訪問したり、西応寺に公使館が設置されるまで約四カ月間、ここに滞在したのである。真福寺滞在中のオランダ使節一行は、しばしば付近を散歩し近所の絵草紙屋によって錦絵などを注文したことが、日本の役人から老中への報告によって知られる。『大日本史料』の記録を左に紹介しておく。
 
   「堀田公睦外国掛中書類」
   敢詰合之者共附添罷越候処、西久保町絵草紙屋ニ暫時立留リ、錦絵類注文致し候処、何れも差障無之品巳ニ而候間、申立候通、翌日真福寺江為持参、夫々立会之上、為買入候由、右之外、途中相変儀無之旨、右之支配向より相届候ニ付、歩行致し候道筋書相添、此段申上候、以上
   和蘭領官旅宿近所遊歩仕候儀ニ付申上候書付  六名
   和蘭領事官儀、昨十三日夕、近辺遊歩罷出度旨申出候ニ付、種々理解申聞候得共、何分承允不致、強而立出候ニ付、不取敢
 
 真福寺は、またロシア使節の宿泊施設としても利用されている。ペリーの来航に遅れること約一カ月、嘉永六年(一八五三)七月以降、開国を要求してたびたび来航していたロシア使節プチャーチンは、安政元年(一八五五)十二月、日露和親条約に調印、ロシア側は、安政五年(一八五八)にゴシケヴィッチを領事兼外交代表に任命し、箱館(函館)に駐在させるとともに、同年七月プチャーチンは将軍に謁見のため神奈川から陸路品川を経て江戸に入り、芝愛宕の真福寺に入った。随員は書記官二名、軍艦の艦長および士官五名で、彼らは駕籠(かご)にのったがきゅうくつなため途中から歩いた。しかし、江戸の町に近づくにつれて物見高い群衆が彼らの服にさわったり靴をなでたりしたので、再び駕籠にのって江戸に入ったという。彼らは江戸では比較的自由であったらしく、七月七日には浅草見物にでかけ、八日には外国事務を扱う老中太田備後守(資始)の屋敷を訪れ、九日には王子付近まで遠乗りをしている。この真福寺を宿舎として、ロシア側は日本と交渉の結果、七月十一日に日露修好通商条約ならびに貿易章程を調印したのである。
【フランス使節グロー】 安政五年(一八五八)八月、品川沖から上陸したフランス使節グローは、真福寺に到着した。その前にフランス士官による真福寺の下見が行なわれ、愛宕山から真福寺の座敷がみおろせるため、参詣人を北のほうへ来させないよう外国奉行から寺社奉行に通達を出させるなど細かい配慮を行なっている。幕府もフランス使節グローにたいしては、真福寺到着のさい慰労として蒔絵、菓子、酒、士官以下の一同には果物、野菜などを贈ったことが当時の外国奉行の一人、水野筑後守(忠徳)の日記に残っている。同時に外国使節を受け入れた真福寺にたいしては、オランダ使節のさいは銀一〇〇枚、ロシアおよびフランス使節の宿舎となった場合には、手当てとして銀一五〇枚を与える旨の書簡も残っている。