(5) 済海寺(三田四丁目一六―二三)

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【フランス総領事ベルクール】 済海寺は浄土宗の寺であるが、フランス外交代表の宿舎として使用された。安政六年(一八五九)八月、フランス総領事兼外交代表ベルクールは、グローの一等書記官として中国および日本との条約締結交渉に随行したが、この時から駐日総領事に任命され、中国から宣教師ジラール、カションなどを従えて来日したのであった。
 ベルクールの任務は、前年にグローが調印した日仏修好通商条約の批准書の交換と、同条約中に定めてある江戸駐在官の宿舎を求めるためであった。幕府側はこの要求にたいし三田の済海寺を宿舎と定めたのである。ベルクールは同年八月二十六日、士官、衛兵ら六〇人余を従えて芝車町海岸より上陸し、済海寺に入った。そして、外国奉行酒井隠岐守(忠行)と会見し、日仏修好通商条約ならびに貿易章程の批准書を交換した。そして済海寺に総領事館の設置されたことを布告し、翌万延元年(一八六〇)四月には、代理公使に昇格し、翌六一年には全権公使となり開国初期における駐日外交団のうちの有力者として、イギリス公使オールコックと協力して積極的な対日政策を展開した。たとえば、アメリカ公使館通訳ヒュースケンが殺害された時は、ベルクールは幕府にたいし外国人の保護と警備が不十分であることを非難し、反省をうながすため万延元年(一八六一)十二月十六日、済海寺をひきはらって神奈川にある領事館に引き上げたほどであった。前述したようなハリスの態度とは対照的であった。しかし、いったん神奈川に移ったものの不便を感じたベルクールは、一カ月半ほどで再び済海寺にもどり、文久二年(一八六二)五月二十七日には、将軍家茂に会見し全権公使に昇格したことを通告して、済海寺がフランス公使館となったのである。
【フランス公使ロッシュ】 文久四年(一八六四)三月二十七日、フランスはベルクールに代えてロッシュを任命し、公使館の主は交代した。公使館として使用されたのは済海寺の書院・庫裡の全部で、慶応二年(一八六六)には玄関・門・門番所など増築され、また、使用していた居室などすべてを外国ふうに模様変えされたとの記録が残っている。
 済海寺は、フランス公使館として明治七年(一八七四)まで使用されたが、現在は当時の面影はなく、いまの済海寺本堂敷地と北隣りの富山県東京出張所の敷地が、当時のフランス公使宿舎跡にあたると考えられている。済海寺は東京都の旧跡に指定されている。